ただ一つの慰め『ハイデルベルク信仰問答』の学び 問80

ハイデルベルクの街

吉田 隆(仙台教会牧師)


『信仰問答』が作られたのは、16世紀のヨーロッパでした。少々難しいかもしれませんが、当時のキリスト教会で最も大きな論争になっていた問題の一つから、今回は学んでみましょう。

『ハイデルベルク信仰問答』本文より 今月のQ&A  先月のQ&A



 プロテスタントのキリスト教会で、通常「主の晩餐」または聖餐式と呼ばれている儀式は、ローマ・カトリック教会では“聖体の秘跡”と呼び、これを含む礼拝全体をミサまたは聖体祭儀と呼んでいます。問題は、このような用語上の違いよりも、それが表す事柄についての理解の違いです。16世紀のプロテスタント教会の信仰告白である『ハイデルベルク信仰問答』は、当時の「教皇のミサ」を本問で非常に激しい言葉をもって批判しています。

 この問80は、元々の『信仰問答』初版にはなかったもので、同じ年に何度か修正されるうちに付加された曰く付きの問答です。実は、当時、プロテスタントに対抗して開催されていたローマ・カトリック教会によるトリエント公会議が、『信仰問答』出版前年の1562年にミサ祭儀についての宣言を公にしました。その宣言に対して急遽挿入されたのが本問なのです。

 以上のような特殊な時代状況に基づいており、かつ指摘されている問題が必ずしも的を射ていないという批判もあって、本問を削除してはどうかという声も聞かれます。しかし、歴史的な文書を勝手に変えるべきではありませんし、むしろ『信仰問答』が何を問題とし何を教えようとしているのかを積極的に学ぶことが大切でしょう。
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 『信仰問答』が聖書の教えとして述べていることは、明白です。第一に「イエス・キリスト御自身がただ一度十字架上で成就してくださった」犠牲は「唯一の犠牲」であるということ。第二に、このキリストの犠牲によって、私たちは「自分のすべての罪の完全な赦しをいただいて」おり「聖霊によってキリストに接ぎ木されている」ということ。第三に「この方は、今そのまことの体と共に天の御父の右におられ、そこで礼拝されることを望んでおられ」るということです。

 これらの諸点は、続く「教皇のミサ」に対する批判と対応しています。問80の答えによれば、ミサの問題点は、第一に「今も日ごとに司祭たちによってキリストが彼らのために献げられ」るということ。第二に、そうでなければ「生きている者も死んだ者もキリストの苦難による罪の赦しをいただいていない」ということ。そして、第三に「キリストはパンとブドウ酒の形のもとに肉体的に臨在されるので、そこにおいて礼拝されなければならない」ということです。
 つまり、パンと杯に成り変わったキリストの犠牲を繰り返し献げなければ私たちの罪の赦しは得られないということであり、それはすなわち「イエス・キリストの唯一の犠牲と苦難」を否定した「偶像礼拝」だというのです。

     私が深く感銘するのは、キリスト教会がいつの時代も・・・、
         生けるキリストを日々実感しながら生きようとしてきたことです。

 公平さを保つために申し上げるならば、当時のカトリック教会が宣言した公の立場は、必ずしもキリストの唯一の犠牲を否定してはいませんでした。カトリック教会がミサについて教えようとしたことは、十字架上でただ一度為されたキリストの救いの効力が今日までも確かに及んでいるということ、私たちのために目に見えない形で今もなお御自身を捧げ続けておられる方にならって、教会もまた神への献身へと促されているということです(パンとブドウ酒がキリストの肉と血になるという教えについては、問78の解説を参照してください)。

 ですから、カトリック教会の公的な教えそのものが非聖書的だと言うことはできないと、私は思います。しかし、このような教えを正確に理解していない人々の間に、どのような迷信や誤謬が入り込んだのかは全く別の話です。聖餐式をめぐる誤解は、当時も今もカトリックでもプロテスタントでも十分起こり得ることだからです。

 難しいのは、十字架上で成し遂げられたキリストの御業が私のためでもあったという聖餐式の真理をどのように説明できるかということです。この事は信仰の神秘ですから、理屈で説明することは不可能です。しかしまた、説明しなければ理解する手がかりを得ることもできないでしょう。
 私が深く感銘するのは、キリスト教会がいつの時代も、このキリストの救いの現実(リアリティ)を真摯に受け止め、生けるキリストを日々実感しながら生きようとしてきたことです。そして、これこそが、私たちが過つことなく受け継がねばならないことではないかと思うのです。

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