ただ一つの慰め『ハイデルベルク信仰問答』の学び 問46−問48

ハイデルベルクの街

吉田 隆(仙台教会牧師)


天高く描かれるイエス・キリストの図像は、私たち人間の心を崇高にします。しかし、イエスが天に上げられたという出来事は、私たちの日々の歩みとどのような関係にあるのでしょう。

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 「キリストが弟子たちの目の前で地上から天に上げられ」という出来事は、新約聖書の『ルカによる福音書』の最後と『使徒言行録』の最初に記されています。弟子たちを祝福しながら、そのまま天へと上げられて行くイエスをポカンと見送っていた弟子たちに、白い服を着た二人の人が「なぜ天を見上げて立っているのか。イエスはまたおいでになる」と語りかける。すると、弟子たちはイエスに言われたとおりエルサレムに戻って聖霊が降るのを待ち続ける…というお話です。けれども、なぜイエスは天へと上げられたのでしょうか。復活されたまま、弟子たちとずっと一緒に居ようと思えば居ることもできたでしょうに。

 まず理解しておきたいことは「天」という言葉の意味です。イエスは文字通り、天高く上げられて行ったのですが、いったい宇宙のどの辺りまでかと考える必要はありません。この場合の「天」とは、神の領域のことであって物理的にどこかということではないからです。つまり、イエスの昇天とは、人間として世に降られた方が再び本来の神の領域へと、神御自身の世界へと、お帰りになったということなのです。

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 『信仰問答』は、そのように栄光の内に上げられたイエスが「生きている者と死んだ者とを裁くために再び来られる時まで、わたしたちのためにそこにいてくださる」と教えます。大切なのは「わたしたちのために」という言葉です。地上から離れてしまうことがどうして私たちのためなのか。詳しくは次回学びたいと思いますが、今回は、天に上げられたイエスはもう私たちと共におられないのだろうかという疑問に答えておきましょう。

 『マタイによる福音書』は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というドラマチックなイエスの言葉で締めくくられています(28:20)。ところが、イエス御自身はこの言葉を置き土産にして天へとお帰りになってしまいました。あの約束はいったいどうなったんだという疑問が起こるのも無理はありません。
 ステファノが殉教の死を遂げた時(使徒7:55)、サウロがダマスコ途上でイエスの御声を聞いた時(9:3-4)、イエスは確かに天におられました。それにもかかわらず、世の終わりまでいつも共にいてくださるとは、どういうわけなのでしょう。

 以前、問18で学んだことを思い出してください。このイエス・キリストという方は、私たちの想像を絶する「まことの人間でありまことの神である」救い主なのでした。ですから、確かに「その人間としての御性質においては、今は地上におられませんが、その神性、威厳、恩恵、霊においては、片時もわたしたちから離れてはおられないのです」。つまり、その復活の体をもってということであれば天におられますが、御自分の霊においては私たちと絶えず共にいてくださる、ということです。

 もしイエスが地上に留まって一か所におられたならば、恵みを受ける人々はごく限られた人たちだけだったことでしょうし、未だに私たちとは無縁の方だったかもしれません。しかし、昇天して、私たちに命を与える「霊」となられた(1コリ15:45)が故に、いつの時代でもどんな場所にいても共にいてくださることができるようになったのです(ヨハネ14:18-19参照)。

確かに、私たちの心は主イエスを慕って天高く上げられるでしょう。
しかし、この方がいつも共におられる以上、私たちは決して孤独ではないのです。

 それでも人間性と神性がいつも一緒でないならばキリストの二つの性質はバラバラになっているのではないかと『信仰問答』は続けます(問48)。これは少々専門的な議論なのですが、答えが言おうとしていることは大切です。

 第一に、無限の神の性質を有限な人間の性質と同じように考えてはならないということ(エレミヤ23:23-24)。第二に、神としてのイエスは、決して人間としてのイエスと別ではないということ。人間の痛みや弱さを知っておられる方が天におられ、また共にいてくださるのです。ですから第三に、主イエスの恵みは片時も私たちから離れてはいないということです。

 私たちはもはやイエスをどこか遠い世界に求める必要はありません。確かに、私たちの心は主イエスを慕って天高く上げられるでしょう。しかし、この方がいつも共におられる以上、私たちは決して孤独ではないのです。

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