第36問 神の愛の確信と祝福
問: この世で、義認、子とされること、聖化に伴い、あるいはそれらから流れ出る祝福とは、何ですか。
答: この世で、義認、子とされること、聖化に伴い、あるいはそれらから流れ出る祝福とは、神の愛の確信、良心の平和、聖霊における喜び、恵みの増加、終わりまで恵みのうちに堅忍することです。
信者がこの世で受ける祝福の豊かさは、義認、子とされること、聖化の解説(問33〜35)では言い尽くされません。それらの中心的祝福と深く結びついた豊かな祝福があります。
人は、この世の有限の愛では満ち足りることができないほどに深い魂を持つ存在です。神の無限の愛なしに、寂しさや空しさは根源から癒されず、生きることの真の喜びに達することはありません。主イエスを信じる時に神の愛は私たちの魂の奥深くにまで届きます。
(1) 義認・子とすること・聖化の恵みの源である主の十字架は、神の愛の確かなしるしです。罪深い私たちを救うために神は御子をも十字架につけ、究極の犠牲をすでに払って下さいました。十字架を仰げば、神の愛の揺るぎなさを私たちは確信できます。
(2) 義認の恵みは最後決定的恵みです。神は私たちの罪を赦し義と認め、この決定を永遠に変更されません(問33)。ですから、私たちは自分の罪深さを思い知らされる時にも、神の不変の愛を確信することができます。
(3) 子とする恵みも最後決定的恵みです。神は私たちを子とされた決定を変更されません(問34)。罪に悩む時も逆境の時も、私たちは父なる神の不変の愛を確信してよいのです。
(4) 聖化の恵みは神のかたち(真の知識と義と聖)に従って全人を新たにされる恵みです(問36)。神の愛は、真の知識により認識され、真の聖(宗教性)により味わわれ、真の義(道徳性=神と人への愛が土台)の中で実感されます。
ただし、聖化はこの世で完成しません。ですから、神の愛についての私たちの確信も現実には時々弱り揺らぐことがあります。けれども、神の愛自体は確かであり、それを確信させて下さる神の恵みも豊かですから、私たちは繰り返しこの喜ばしい確信に立ち戻り、ついに不動の確信に至ることができるのです。
自分で自分を責める良心の苦しみは辛いものです。信者はなお罪人ですが、神の変わらない愛と赦しに支えられて、良心の平和を与えられます。私たちがどんなに自らを厳しく責めても、主には別の判断があります。主の前では信者は罪赦された存在であり、永遠に愛の対象です。罪に心が痛む時も、主の赦しと愛に支えられて良心の平和を取り戻せます。
聖霊は私たちを主と人格的に深く結びつけて下さいます。主を愛し、主の愛を味わう交わりの喜びが、聖霊における喜びの中心です。
聖霊は聖化の働きもなさいます。その聖化は知性・倫理性・宗教性を含む全人的なきよめであり、漸進的でした。一生涯、信徒は神との恵みの関係を深めることに招かれています。「恵みの増加」が約束されているのです。
クリスチャンの喜びは、洗礼を受ける時が最高なのではありません。受洗の時は特別の一歩を踏み出す感激の時ですが、信仰の喜び自体は、その後に増し加わり続けます。
「堅忍」とは、主と信者の結びつきが最後まで保たれる事です。信者は信仰を守り通す力を受け、主イエスご自身も、私たちの救い主であり続けて下さいます。この世の何も、「キリスト・イエスにおける神の愛から私たちを引き離すことは出来ない」のです(ロマ8:39)。
受洗後に教会を去る人もいます。しかし、真の信仰者なら必ず立ち帰ります。試練の日に多くの人が信仰を回復します。最大の試練である死の時は最大のチャンスです。人の目に隠れた信仰回復者はいるはずです。主はすべての真の信者に堅忍を与えて下さるのです。
もちろん、キリストを信じないで形だけの洗礼を受けた人はこの限りではありません。
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