月刊誌リジョイス 聖書日課 2022年8月25日(木)

エレミヤ18-24章 神が引き抜くとき植えるとき

  

彼らに目を留めて恵みを与え、この地に連れ戻す。彼らを…植えて、抜くことはない。…彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。(エレミヤ24:6-7)

 「悪をもって善に報いてもよいでしょうか」(18章20節)。思わずそう神に訴えたくなるような現実がエレミヤの目の前に広がっています。

 生活の腐敗が礼拝を歪めるのか、あるいは礼拝の腐敗が生活を歪めるのか、どちらが先とは言えません。いずれにせよ、神の目にはどちらもいびつな形として映ります。

 神に召されたエレミヤは、この同じ神の視点を与えられるだけでなく、その痛みをも負わされます。人びとからは、エレミヤこそがいびつな存在として見られました。国の滅亡という不安ばかりあおっていると。

 神に対しても、これからやって来るバビロンという大国に対しても、負けを認めることこそが「命の道」であることをエレミヤは民に示します(21章8節)。それは、自分たちが蔑ろにしてきた「貧しい人」になることへの道でした。彼らの訴えを聞くことこそ、神を知る道であったのに(22章16節)、王は自分の家を広げることに専心し、預言者は神の言葉を盗み合って、それを曲げたのです(23章30節以下)。

 罪の痛みが麻痺すると、自らの充足感を神とします。そしてそれは大抵行き過ぎます。人はそこから引き抜かれます。神のもとへと帰る真心を、神御自身が植えるためです。

 【祈り】 神様。自分自身のことで精一杯です。あなたに帰る真心をください。そして隣の人への思いをください。

Copyright (C) 2022 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.