コヘレトは言う。
なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。(コヘレト1:2)
「天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探求し、知恵を尽くして調べた」(13節)というコヘレトの口から漏れるのは、「すべては空しい」という感情にほかなりませんでした。
その思いを占めるのは、「つらい」「労苦」「もの憂い」「満たされない」「悩み」「痛み」といった言葉ばかりです。こんなことなら「結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎない」とさえ思われ(17節)、「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す」というやりきれなさだけがその結論でした(18節)。「人は労苦するが、すべての労苦も何になろう」と感じて(3節)、自分のしてきたすべての労苦の意味を見いだせない。私たちにも決して無縁ではない絶望感です。
しかし、そのような状況の中で芽生えるものがあります。13節に芽生える「神は」という主語です。確かにここではまだ「神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ」という「つらい」思いの内にありますが、そのような空しさや苦しさの中から、この「神」という主語へと向かう歩みが始まります。
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