聖書を開こう 2024年11月21日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  神の国が来ているのに(マタイ9:35〜38)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 イギリスの登山家、ジョージ・マロリーは、「なぜエベレストに登りたいのか」という質問に対して、「そこに山があるから」と答えました。この答えは、いろいろな事柄にも適用することができると思います。読書の好きな人は「なぜ本を読むのですか」と聞かれて、「そこに本があるから」と答えることができるでしょう。

 キリスト教会がなぜ伝道するのか、と問われるならば、「そこに救いを必要とする人がいるから」というのも一つの答えであるように思います。

 イエス・キリストの周りには、神の愛と憐れみを必要とする人たちが大勢いました。今日取り上げる聖書の箇所には、イエス・キリストが人々を助け、教え、癒される場面が描かれています。その活動の背後には、深い憐れみの心がありました。この憐れみこそ、私たちが主イエス・キリストの働きを理解し、それに倣う鍵となります。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 9章35節〜38節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

 今お読みした箇所には、イエス・キリストが町や村を巡り、三つの働きを行ったことがされています。「教えるること」「福音を伝えること」そして「病気を癒すこと」です。この三つは、イエスの働きの中心であり、すべての人々に向けられたものでした。 実は同じことはすでに学んだ4章23節にもこう記されていました。

 「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」

 この4章23節からきょうのところまでに記されてきた事柄は、まさに人々を教え、福音を宣教し、病気を癒されるイエス・キリストの姿でした。同じ言葉がきょうの箇所で繰り返されているのは、弟子たちがその働きを担って遣わされていく次の場面への橋渡しということができると思います。

 教えることの前提にあるのは、人々が神の愛や神の国の真理について必ずしもよく知っていたわけではないからです。確かにユダヤ人として生まれ育った人たちにとっては、聖書の言葉には慣れ親しんできたはずです。しかし、だからと言って、神の愛や神の国について正しい知識があったわけではありません。だからこそ人々は導きを必要としていました。イエス・キリストはその空白を埋めるために教えられました。山上の説教などに見られるように、神の言葉は希望をもたらし、人生を照らす光となるものです。

 その教えの中で、神の国の福音はイエス・キリストの宣教活動の中心をなすものでした。福音とは「良い知らせ」であり、それは神が私たちを愛し、救おうとしておられることを知らせる言葉です。イエス・キリストは罪や過ちに縛られた私たちに、新しい命を与えるメッセージを伝えるお方です。

 また、イエス・キリストの働きは言葉によるものばかりではなく、癒しの御業も含まれていました。イエス・キリストがなさった癒しは体の癒しだけではありません。心の傷をも癒されました。この癒しは、神の愛が具体的に人々に届く形でした。

 こうしたイエス・キリストの働きは、ただの活動ではありません。それはイエスの「深い憐れみの心」から湧き出たものでした。

 36節には、イエスが群衆を「飼い主のいない羊」のようにご覧になったとあります。この表現は、旧約聖書エゼキエル書34章にも登場し、無責任な指導者たちのもとで苦しむ民衆の姿を描いています(エゼキエル34:7-8)。

 「飼い主のいない羊」とは、守りも導きもない状態を意味します。イエス・キリストはその群衆の姿に「深く憐れまれた」とあります。この憐れみは、新約聖書でわずかにしか使われない特別な言葉で、心の奥底から揺り動かされる感情を表しています(マタイ18:27、ルカ10:33、15:20他)。

 イエスにとって、人々はただの「問題」ではありません。愛すべき存在でした。だからこそ、人々に近づき、救いの手を差し伸べられたのです。この憐れみの心が、宣教の原動力となりました。

 続く37節と38節では、イエスは弟子たちに「収穫は多いが、働き手は少ない」と語られました。ここで言う「収穫」とは、人々が福音を受け入れる準備ができている状態を指します。

 現代の日本では、「キリスト教が広まるのは難しい」と言われがちです。しかし、愛と憐れみのまなざしで人々をご覧になる主イエス・キリストの視点に立つと、むしろ多くの人々が真理や希望を求めていることがわかります。問題は、働き手の不足です。そのために、イエス・キリストは弟子たちに「収穫の主に願いなさい」と命じられました。

 ここで注目すべきは、イエスが「自分たちで解決せよ」と言われたのではなく、祈りによって働き手を求めるように勧められたことです。宣教の働きは神に属するものであり、私たちの力ではありません。神の導きと備えに頼ることが大切です。

 今日の箇所から学ぶことは多くありますが、特に心に刻みたいのは、イエスの深い憐れみの心と、祈りを通して働き手を求める姿勢です。

 私たちも日々の生活の中で「飼い主のいない羊」のような人々に出会うことがあります。悩みを抱え、助けを必要としている人がいます。そのような時、イエス・キリストのような憐れみの心で接することができれば、私たち自身も神の働き手となる道が開かれるのではないでしょうか。

 最後に、この働きを支える祈りを忘れないようにしましょう。収穫の主である神に、私たちが何をすべきかを示していただき、必要な働き手を備えていくために、祈り求めたいと思います。

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