メッセージ: 神の国が来ているのに(マタイ9:27〜34)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「キリスト教の奇跡の話には興味が持てない」。そうそう思う人は少なくないと思います。確かに目に見えない神の力を信じるのは簡単なことではありません。
しかし、奇跡は、ただの不思議な現象ではありません。そこには神が私たちに届けたいメッセージが隠されています。きょう取り上げようとしている話には、イエス・キリストが目の見えない人や話せない人を癒した奇跡が記されています。ここから神が私たちに何を伝えようとされているのか、ご一緒に考えていきたいと思います。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 九章二七節〜三四節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。
きょうの個所には、二つの奇跡が描かれています。まず登場するのは、目が見えない二人の人です。キリスト時代のユダヤの地では、体に障害を持つ人々は非常に厳しい立場に置かれていました。社会から支援が得にくい上に働き口がほとんどないため、生活の多くを物乞いに頼らざるを得ませんでした。
もちろん、旧約聖書の教えには、こうした人々をけっして不当に扱わないようにという掟があったことも事実です。
たとえば、『レビ記』一九章一四節には、「耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。」と教えられています。さらに、申命記二七章一八節で は、盲人を導かずに道に迷わせる者には呪いがあるとされ、弱い立場の人々を故意に傷つけることへの警告がなされています。
しかし、それにもかかわらず、周りの人からは「神に見捨てられた人」と不当に見なされることも少なくありませんでした(ヨハネ9:2参照)。
目が見えないこの二人も、周囲の人からそうした冷たい視線を感じながら暮らしていたのかもしれません。
この二人は「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びながら、イエスの後を追いかけました。この「ダビデの子」という呼びかけには、この二人のどんな思いが込められていたのでしょうか。もちろん、マタイによる福音書の始めには、イエス・キリストがダビデ王の子孫であることが系図を持って示されていました。しかし、この二人がその事実を知っていてそう呼び掛けたのではないでしょう。
むしろ、救い主メシアが来るとすれば、ダビデ王のような偉大な存在だという期待から出た呼びかけでしょう。少なくともこの二人にとってイエスというお方は、自分たちの救いを託すことのできるお方という希望が込められた呼びかけです。
家の中に入った後、ついて来たこの二人にイエスは「わたしにできると信じるのか」と尋ねます。これは二人の信仰を確かめる言葉です。
即座に二人は、「はい、主よ」と答えます。
この「主よ」という言葉には、ただ単に癒しを求めるというだけでなく、イエスというお方を主と仰ぎ信頼して依り頼む思いが込められています。この瞬間、二人はただ目が見えるようにしてもらいたいというだけではなく、イエスをお遣わしになった神のもとに身を置く覚悟を持っていたのです。
その信仰に応えて、イエス・キリストは「あなたがたの信じているとおりになるように」とお語りになりながら二人の目に触れました。二人は、その瞬間初めて光を感じ、目の前に広がる世界を見ることができました。これまで聞いて想像するしかなかった色や形、光と影、周りの人の表情までが鮮やかに映し出されます。
しかし、イエス・キリストは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と厳しくお命じになりました。
これは奇跡がただの見世物のように広まることを望まれなかったからでしょう。人々が信仰をもって神の働きに目を向けるようにと願っておられたからです。しかし二人は外に出ると、この大きな喜びを抑えきれず、イエス・キリストがなさったことを言い広めてしまいます。この二人にとってはそれほど大きな喜びだった証しです。
それから、今度は話すことができない人がイエスのもとに連れてこられました。この人もまた、悪霊に取り憑かれたことで言葉を失い、孤独な日々を過ごしていたことでしょう。当時、悪霊に取り憑かれた人々は周囲から恐れられ、排除されがちでした。家族や友人と話すこともままならず、言葉を失うことは、人としての尊厳を失うことでもありました。
イエス・キリストはそんな彼に触れ、悪霊を追い出します。すると、長い間閉ざされていた口が開かれ、言葉が流れ出しました。きっとその一言一言は、周りにいる家族や友人にとっても尊いものであったことでしょう。
群衆は、これまで見たことのない奇跡に驚き、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と口々に言い始めます。
しかし、同じ出来事を見ていたファリサイ派の人々には、この出来事が違うように見えました。ファリサイ派の人々は「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」とイエス・キリストのなさることを非難しました。ファリサイ派の人々は、目の前で起きている奇跡を信仰をもって受け入れることができなかったからです。心を開かずに見た者にとっては、イエス・キリストの御業もまた別の解釈になってしまったのです。
ここで思い出すのが、旧約聖書イザヤ書の預言です。預言者イザヤはこう語りました。
「そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。 口の利けなかった人が喜び歌う。」(イザヤ35:5)
これは、神の国が訪れ、救いがもたらされる時の姿を象徴するものです。つまり、イエス・キリストがなさった奇跡はただの癒しではなく、まさに神の国の訪れを告げるものでした。
信仰とは、目に見えないものを信じる心であり、神が働かれる力を信頼することです。イエスは目が見えない人の目を開き、口の利けない人を癒しました。この出来事には、単なる奇跡を超えた神の愛と救いのメッセージが込められています。イエス・キリストのいらっしゃるところに神の力が現れ、神の愛と憐れみが表れているのです。