メッセージ: 命の君、イエス(マタイ9:18〜26)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
最近の子どもたちの間で、テレビゲームの影響からか、「死んでもまた生き返る」という安易な死生観が見られることが報じられています。また、もう何年も前の話ですが、亡くなった動物に対して小さな子どもが「電池を取り替えてほしい」と願ったというエピソードも耳にしたことがあります。これは現代の死生観に「死」の持つリアリティがどこか薄れていることを反映しているのかもしれません。
しかし、聖書が描く「命」と「死」は、それとは異なります。命はかけがえのないもので、失ったときの悲しみも非常に重たいものです。
きょう取り上げる箇所には、一人の娘を失った父親の話が出てきます。この父親にとって、娘の死は単なる「現実」ではなく、心を引き裂かれるような体験です。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 9章18節〜26節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。
すると、そこへ12年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。
イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。このうわさはその地方一帯に広まった。
前回も取り上げたこの個所には、二つの交差するストーリーが描かれています。前回は、12年間も病に苦しむ一人の女性の話を先に取り上げました。
今回取り上げるのは、先にイエス・キリストのもとへとやってきた父親の話です。
ある日、イエス・キリストが民衆に話をしているときに、ひとりの父親がやって来ました。この父親は娘の死に深く心を痛め、じっとしていることができない人でした。もちろん、この父親は、自分の娘が現実に息を引き取ったことを理解していました。しかし、簡単に娘の死を受け入れるはできませんでした。そこでこの人は諦めることなく、主イエスに頼ろうと決意しました。人々は死を「最終的な別れ」として受け入れますが、この父親はイエス・キリストならば娘を生き返らせることができると信じていたのです。
「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」
こう言いながらこの父親はイエス・キリストの前にひれ伏しました。その言葉には、父親の必死な願いが込められています。愛する娘のために、できる限りのことをしたいという心情が伝わってきます。どんなに無理なことであっても、最後まで希望を捨てない父親の姿勢は、私たちにも深く響きます。娘の死を受け入れることができず、それでも生き返る可能性に賭けたいというこの思いは、命の尊さを物語って余りあるものがあります。
私たちの現代の感覚では、死は一度訪れたらもう戻ることのない、最も重く、取り返しのつかない現実として捉えられています。誰もが愛する人との別れを心から嘆き、悲しみます。周りは何も変わらないのに、その大切な存在だけがここにいないやるせなさに、孤独感を感じてしまうことも少なくありません。しかし、この父親のように、命の主であるイエス・キリストに頼り、希望を見出そうとする姿勢は、私たちにも大切な示唆を与えてくれます。
さて、イエスはこの父親の信仰と必死の願いを受け入れ、この父親と共に娘のもとへ向かいます。ここで私たちは、イエス・キリストの心の優しさ、そして愛の深さを感じることができます。主イエスは決して「人々を見捨てる方」ではありません。どんなに絶望的な状況にあっても、私たちに希望と救いの手を差し伸べてくださるお方なのです。イエス・キリストが父親に寄り添って共に歩むその姿は、まさに命の君としての愛と力を示しています。
一行が娘の家に着くと、すでに大勢の人々が集まり、笛を吹いたり泣き叫んだりして、娘の死を悲しんでいました。この光景をご覧になったイエス・キリストは、「少女は死んだのではない、眠っているのだ」と宣言します。しかし、その言葉に対して周囲の人々は笑いました。彼らにとって、死は決定的で不可逆なものだったからです。「死者が生き返るなどあり得ない」という思い込みが人々にはあったからです。
しかし、イエス・キリストだけは違いました。キリストは「命の君」として、私たちの考える死の概念を超越しておられるお方です。イエス・キリストは死を最終的なものと見なしていません。キリストにとって、死は「永遠の別れ」ではなく、「眠り」と捉えられていたのです。これこそ、私たちの理解を超えた「命の君」「命の主」の視点です。
イエスは群衆を外に出し、少女の手を取りました。ここで、イエス・キリストがなさったのは祈りや儀式ではなく、ただ静かに少女の手を取るというシンプルな行動でした。この行動こそが、イエスが命の主としての力を持っておられることを示しています。どんなに絶望的な状況であっても、イエスがその命に触れられるとき、希望が甦ります。
少女は息を吹き返し、起き上がります。
この物語は、決してただの古い奇跡物語ではありません。私たちにとっても重要なメッセージが込められています。それは「イエス・キリストには、死をも克服する力がある」ということです。そして、その力が、今も私たちのそばにあり、私たちの命を支え、導いてくださるという希望を与えてくれます。
この世では、愛する人との別れを経験することが避けられない現実です。わが子や親しい人を失う悲しみは、言葉では表現しきれないものです。そのような時、心は壊れそうなほど孤独に苛まれることでしょう。しかし、この聖書の箇所にある父親のように、私たちも命の君であるイエス・キリストにすがることができます。イエス・キリストは必ずその手を差し伸べ、私たちの心に新たな希望を与えてくださいます。
私たちがどんなに悲しみに打ちひしがれていても、イエスの手が私たちをしっかりと支えてくださいます。命の君であるイエスが私たちと共におられることで、私たちはどんな絶望の中でも再び立ち上がる力を得ることができます。愛する者との別れを経験したとき、その悲しみは決して軽いものではありません。しかし、主イエスが共にいてくださるという確信があるなら、その悲しみの中にあっても「命の希望」を見出すことができるのです。
最後に、ぜひ覚えていていただきたいことがあります。それは、イエス・キリストが私たちの命に真摯に向き合ってくださる方であるということです。主イエスは命を軽く扱われません。一人ひとりの命に重きを置き、尊いものと見てくださるお方です。だからこそ、このお方に希望を置くことが、私たちにとって力強い慰めとなるのです。