メッセージ: 元気になりなさい(マタイ9:18〜22)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
人生は時として、自分が計画した通りにはいかないものです。目の前にあった安定した生活が突然揺れ動く瞬間、思いも寄らない出来事が割り込んでくることがあります。嬉しいサプライズならいいのですが、時には望んでもいないトラブルや試練がやってきます。計画の途中に割り込んでくる出来事は、不愉快で面倒に思えるかもしれませんが、その背後には神の導きが隠されていることもあるのです。神は時にその「割り込み」を通して、私たちに大切なことを教えようとされます。
今日取り上げる聖書箇所は、まさに「割り込み」に満ちた物語です。ここでは、イエスがある父親の願いを聞き届ける途中で、12年間も病に苦しむ女性が現れます。その女性との短い出会いの中で、神の愛と信仰の力がどのように働いたのかを見ていきましょう。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 9章18節〜22節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。すると、そこへ12年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。
きょう取り上げた個所には、娘のためにイエス・キリストの助けを求めて駆けつける父親の話と、その途中でそれほど緊急とは思えない一人の女性が自分の病を癒していただこうと、イエス・キリストに近づいてきた話が交差して描かれています。今回はこの話を二回にわたって取り上げようとしています。
今週は先ず長血を患う女性の物語に心を留めてみましょう。この女性は12年もの間、出血の病を患っていました。12年という年月は、誰にとっても長く感じられるでしょうが、この女性にとっては特に過酷なものでした。病気そのものの苦しみに加え、旧約聖書のレビ記の規定によって(レビ15:25-27)、「汚れた者」と見なされ、社会的にも孤立を強いられていました。家族や友人との触れ合いはもちろん、公共の場にも自由に出入りできず、心身ともに孤独の中に置かれていたのです。それが一時的なものであれば、まだしも、12年間という期間はこの人にとっては一生に近いと感じるほど長い期間でした。
ルカによる福音書はこの女性についてもっと詳しく記しています。その記事によると、この女性は癒しを願い、医師に全財産を費やしました。しかし、何の効果もありませんでした(ルカ8:43)。その結果、この人は経済的な困難にも追い詰められていました。まさに希望のない暗闇の中を生きていたのです。お金には代えることができない健康を願って全財産をつぎ込んだのに、健康上の苦しみに加えて、経済的な困窮までも身に追わなければならなくなってしまいました。泣き面に蜂とはこのことを言うのでしょう。
そんなこの女性が、主イエス・キリストの存在を知り、「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と信じます。
藁にもすがるようなこの信仰を、私たちは御利益信仰だと軽んじることはできません。この人と同じ苦しみを味ったことのある人だけが、この女性が抱いた信仰の意味を理解できるでしょう。
この女性は律法の枠の中でその規定に従って生き、人々の目を恐れて日々の生活を送っていましたが、それでもイエス・キリストに近づく勇気を奮い起こしました。
正面から「助けてください」と叫ぶこともできず、誰にも知られないようにそっと主イエスの後ろから近づきます。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と信じて衣の房に手を伸ばしました。癒されることだけを願い、イエス・キリストだけがその願いをかなえる力を持っておられると、そう信じていたのです。
ここで重要なのは、この女性の信仰が単なる「期待」や「偶然への賭け」ではなかった点です。医師たちが解決できなかった病を前に、彼女はもはや人間の力に頼ることをやめ、イエス・キリストにすべてを委ねたのです。このように、信仰は状況が絶望的に見えるときこそ、神に全幅の信頼を寄せて歩み出す力となります。
女性がイエスの衣に触れると、願い通りに出血は止まりました。しかし、マタイによる福音書が強調するのは、癒しそのものよりも、その後のイエスの言葉です。イエス・キリストは振り返り、彼女を見つめてこう言います。
「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(マタイ9:22)
ここで注目すべきことは、イエス・キリストがこの女性を「娘よ」と呼んだ点です。
12年間、社会から見放され、孤独の中で生きてきたこの人にとって、この呼びかけはどれほど温かく、心に響いたことでしょう。イエス・キリストはこの女性の病だけでなく、その魂までもお癒しになったのです。この女性が受け取ったのは、単なる肉体の回復だけではありません。神との新しい関係の中で与えられる「平安」をも与えられたのです。
この物語は、イエスの衣自体に魔法のような力があったわけではありません。癒しを可能にしたのは、彼女の信仰でした。奇跡とは、信仰をもって神の恵みを受け取るときに初めて成り立つものです。もしこの女性に信仰がなければ、たとえ一時的に病が癒されたとしても、この人の心には何も変化が生まれなかったでしょう。
信仰は、目に見える結果以上のものを私たちに与えます。それは希望と平安です。困難な状況にあっても、神を信じる心がある限り、私たちはどんな時でも立ち上がる力を得ることができるのです。
この物語が私たちに教えるのは、信仰の力です。信仰とは、絶望の中でも神を信じ、希望を持ち続ける心です。たとえ状況が厳しくても、神の愛はいつも私たちと共にあります。そして、信仰のあるところにこそ、真の癒しと平安が与えられるのです。
今日の聖書箇所に登場する12年間病に苦しんだ女性は、信仰によって立ち上がり、癒しと希望を手に入れました。彼女の姿は、私たちに信仰の力を教えてくれます。イエス・キリストに全てを委ねきる勇気を持つとき、神は私たちに必要な力を与えてくださいます。
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