聖書を開こう 2024年10月17日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  罪人を招くために(マタイ9:9-13)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 イエス・キリストはしばしば「わたしが来たのは〜するためである」あるいは「〜するために来たのである」とおっしゃって、自分が来られた目的をはっきりすとお語りになりました(マタイ5:17; 9:13; 10:34; マルコ2:17; ルカ5:32; 12:49; ヨハネ10:10; マルコ10:45; ルカ19:10)。

 きょう取り上げる個所にもご自分が来られた目的をはっきりとイエス・キリストは語っておられます。しかし、この明快な答えは、当時の人々には必ずしも納得のいくものではありませんでした。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 9章9節〜13節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 きょうの個所は徴税人のマタイがイエス・キリストに招かれて弟子となった話です。地名は明記されていませんが、前回の話と同様にカファルナウムでの出来事と考えられています。

 収税所はローマ帝国内にひろく分布していて、とりわけ交通の要所には置かれていました。カファルナウムという町もまた地中海と内陸部を結ぶ交易路の上に位置していたため、収税所を設けるには最適な場所だったと考えられています。

 徴税人の仕事は、主に通行税や物産税を取り立てる仕事でした。この仕事は、請負契約の形で運用されており、ローマ帝国から徴税権を買うことで成り立っていました。

 徴税人たちは、見込まれる税収を一括でローマ政府に収め、そのあとで各地で実際の税金を徴収して利益をあげていましたから、計算ができる人でなければ、莫大な損害を被ることになる反面、多めに税を取り立てることで私腹を肥やすこともできました。

 福音書の中では、しばしば徴税人はユダヤ人たちから罪人扱いされています。先ほども触れましたが、必要以上の取り立てによって私腹を肥やすことでき、それはまさに「盗んではならない」とする十戒の八戒を犯していると看做されたからです。

 しかし、ユダヤ人たちにとって特に嫌われる理由は他にもありました。それは主に宗教的な理由からでした。彼らは仕事柄、まことの神を知らない異邦人との接触が頻繁でした。ユダヤ人から見れば、そのような宗教的な汚れをうける環境に日常的に関わることは忌まわしいことでした。その上に、皇帝を神とするローマ皇帝のために仕えることは、主である神のみをまことの神と信じるユダヤ教の教えに反することと考える極端な人たちもいました。こうしたことから、ユダヤ人たちは同胞の徴税人を罪人とみなしていました。

 さて、このような背景がきょうの出来事を理解するうえでとても重要です。

 イエス・キリストが声をおかけになったのは、まさにユダヤ人たちが嫌う、罪人同然と看做されていた徴税人のマタイでした。主イエス・キリストはマタイに向かって「わたしに従いなさい」とおっしゃいました。

 イエス・キリストのこの招きの言葉は、神のあわれみがどのような人にも開かれていることを物語っています。おそらくマタイの人生の中で、このような声を人からかけてもらったことなど一度もなかったことでしょう。マタイは即座に立ち上がってイエス・キリストに従います。

 場面が変わって、マタイの家での食事の席での様子が描かれます。自分を弟子として招いてくださったイエス・キリストへの感謝と喜びの気持ちを表わすために、マタイ自身がこのような席を設けたのでしょうか。イエス・キリストご自身もまた、食事への招待を快く受け入れておられます。そこには仲間の徴税人や罪人と呼ばれる人たちも集まってきます。

 人々の目から見れば、正に類は友を呼ぶようなよろしくない集まりに見えたことでしょう。その様子を見ていたファリサイ派の人々はこう言います。

 「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」

 ファリサイ派の人たちがそう思うのも無理はありません。イエス・キリストが神から遣わされた正しい人であるならば、罪人を嫌いこそすれ、その人たちと親しく交わることなどありえないからです。ファリサイ派の人たちのこの言葉には、イエス・キリストやその弟子たちに対する軽蔑の気持ちさえ表れています。

 しかし、イエス・キリストはこれを聞いてお答えになります。

 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 ここには救いに対する考え方の根本的な違いがはっきりと表れています。

 ファリサイ派の人たちが考えている救いは、正しい者たちの救いです。その前提にあるのは、この世界は悪しき罪人どもによって支配され、正しい自分たちはその悪に苦しめられている被害者だという思いです。

 確かに、それは半分は正しいかもしれません。なぜなら、この世の悲惨さは人間の罪によるからです。その罪の結果に苦しむ現実は否定できません。しかし、イエス・キリストの目から見れば、それば半分は間違っています。なぜなら、ファリサイ派の人々は自分自身の罪をほとんど棚に上げているからです。この世にあって人は皆、罪人であり、罪の加害者であると同時に罪の被害者でもあるからです。

 ですから、ほんとうの救いは、罪人を排除することによって実現されるのではなく、罪人を神のもとへと回復させることによってこそ、実現されるのです。イエス・キリストはそのことを医者と病人の関係に例えて「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」とおっしゃいます。

 また、ファリサイ派の人たちは、救いに対する考えばかりではなく、神ご自身についても誤った考えを持っていました。神の正しさや義だけを強調し、神の憐れみや慈しみについては、ほとんど正しく考えることが出来なかったからです。

 「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」とおっしゃるイエス・キリストのお言葉には、そのことが指摘されています。

 確かに神は正しいお方ですが、同時に憐れみと慈しみとに富んでおられるお方です。神の憐れみがなければ、そもそも罪からの救いなどありえないからです。神がわたしたち罪人を慈しんで、救い主イエス・キリストをお遣わしになったのです。

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