メッセージ: 罪を赦す権威(マタイ9:1-8)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
病気と罪の問題を安易に結びつけて考えることは、決して良いことではありません。聖書は確かにこの世の悲惨さが人間の罪の問題と深くかかわっていることを教えていますが、しかし、個々の病が個人の特定の罪と必ず直接結びついているとは教えていません。
あるとき弟子たちが生まれつき目が見えない人を見て「この人が生まれつき目が見えないのは、だれかが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と質問したのに対して、イエス・キリストは本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」とお答えになって、弟子たちの考えをたしなめられました。
他人の病や障害に対してそのような安易な考えを持つことはもってのほかです。しかし、自分自身のこととなると、自分の身に起こったことが、自分の罪に起因しているのではないかと、しばしば考えてしまいがちです。自分の犯した罪に対して敏感で、そこから目をそらそうとしない人ほど、そう考えてしまいがちです。
きょう取り上げる箇所には一人の病人を癒されるイエス・キリストの御業が記されています。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 9章1節〜8節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。その人は起き上がり、家に帰って行った。群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。
きょうの個所は、イエス・キリストがガダラから再びご自分町カファルナウムに戻ってこられた所から始まります。
そのうわさを聞き付けた人々が早速中風で苦しむ人を床に寝かせたままイエス・キリストのもとへと連れてきます。
イエス・キリストはその人たちの信仰をご覧になったと記されています。いったいどんな信仰をご覧になったのか、詳しいことは記していません。同じ出来事を記したマルコによる福音書には、四人の男たちがその中風の人を連れてきたこと、そして、群衆に阻まれてイエスのもとへ連れて行くことができなかったため、その人たちは屋根に上がって屋根をはがして、床のまま患者を吊りり下ろした次第が書かれています。
マタイによる福音書はその詳しい状況を一切省いて、「その人たちの信仰を見た」とだけ記しています。シンプルな状況描写ではありますが、それだけに彼らの信仰について思いを膨らませることができます。
「その人たちの」とありますが、それは連れてきた人たちの信仰もそうですが、連れてこられた人の信仰もそこには含まれています。誰が言い出したのかはわかりませんが、連れてくる人たちと連れてこられる人の思いが一つでなければ、この出来事は始まりません。
そして、連れてくる人たちが、この一人の患者のことをいつも心にかけていなければ、このような行動に出ることはなかったでしょう。
そして、何よりもみんなの心がイエス・キリストこそ癒しの御手を差し伸べてくださるという期待と確信で一つとなっていなければ、ここに来ることもなかったでしょう。
そのすべてを含めて、イエス・キリストはその人たちの信仰をご覧になったのです。
ところが、その人たちの信仰をご覧になったイエス・キリストは、その中風の人に触れるでもなく、また、「病気から癒されよ」とおっしゃるのでもなく、「子よ、元気を出しなさい」という言葉をまずかけられました。
病気の人に向かって「元気を出しなさい」「気を落とさないで頑張って」ということは、イエス・キリストに限らず、誰でも口にする言葉です。そういう意味では、開口一番に、イエス・キリストの口から出てきたこの言葉の平凡さに、この人は驚いたかもしれません。
しかし、それ以上に驚いたのは次の言葉です。
「あなたの罪は赦される」
病を癒していただくためにやってきたこの人に向かって、「あなたの罪は赦される」とはどういうことでしょうか。この人の病は、特定の罪と結びついていたということでしょうか。確かに何でもご存じのイエス・キリストには、この病がこの人の特定の罪と結びついていることが見えたのかもしれません。しかし、番組の冒頭でも紹介した通り、イエス・キリストは病や障害をその人の特定の罪と簡単に結びつけるようなお方ではありません。
イエス・キリストがご覧になったのは、その人の心の不安です。確かにこの人は人の手を煩わさなければどこへも行くことができない人です。それだけでも、自分の将来に対する不安はいっそう大きかったことでしょう。しかし、そのような境遇にあるこの人にとっての不安は、それだけではなかったはずです。自分がこのような境遇に置かれた理由について、この人は何度も何度も自問し、悩んできたことでしょう。何か自分の落ち度がそうさせているのではないか、自分の罪深さについて自覚すればするほど、その思い募ってしまいます。
イエス・キリストはその心の不安にまず目をとめられ、その悩みを取り去ってくださるお方です。この人にとっては、体の自由を回復していただくよりも、罪の赦しの確信が与えられることの方がもっと大きな喜びであったことでしょう。いえ、健康な人間が、自分の存在や罪について考える機会が乏しいことの方が、イエス・キリストの目には残念過ぎるのかもしれません。イエス・キリストにとって最大の関心は、その人が神との関係を健全な関係に保つことです。
さてこの出来事は、ここで終わりではありません。その一部始終を見ていた律法学者たちから、神を冒涜しているという非難を受けます。
律法学者たちにとっては、罪の赦しは神だけが行えるものであり、人がそれを宣言することは冒涜と見なされました。確かにその通りです。イエス・キリストがただの人であり、口から出まかせをいっているのであれば、律法学者のいう通り、それは神を冒涜することにほかなりません。
しかし、神が宣言される罪の赦しは、信仰をもって受けとめるほか、確信することはできません。まことの神が今ここに現れてわたしの罪の赦しを宣言されたとしても、わたしの額に「無罪」という文字が現れるわけではありません。
けれども、イエス・キリストはこの律法学者たちの頑なな心でも理解できるようにと、あえて目に見える奇跡をなさいました。神にしか行えない奇跡を見せることで、ご自身の神性を明らかにされたのです。ただの人間ではないイエス・キリストであるからこそ、罪を赦す権威を持っておられるのです。