メッセージ: 人間性の回復と人々の奇妙な反応(マタイ8:28-34)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
聖書の中には「悪霊」(マタイ8:16)とか「汚れた霊」(マタイ12:43)という言葉が出てきます。現代を生きるわたしたちからすると、明らかに馴染みのない言葉です。
きょうの個所にも「悪霊に取りつかれた者」という表現が出てきます。わたしたちはその男たちの行状から、安易にそれを現代の病名に置き換えて理解しようとするかもしれません。現代のわたしたちからすると、そう理解したほうが、この話が身近に感じられるのかもしれません。
しかし、そういう読み方は、この個所が語る重要なメッセージを薄めてしまう危険性があります。福音書記者が描こうとしているのは、単に病に苦しむ人に向き合うイエス・キリストの姿ではありません。そうではなく、悪霊に立ち向かい、悪霊の支配から人を解き放つイエス・キリストの姿です。
悪霊や汚れた霊について、聖書から詳しく学ぶ必要はありませんが、それをただの病気の一種に置き換えて、そのような霊的な存在がなかったかのように聖書を読むことは、この福音書の語るメッセージを読み違えてしまう危険があります。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 8章28節〜34節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。
前回の学びでは、湖を渡ろうとする弟子たちに突風が吹き荒れた話を学びました。イエス・キリストは風をも波をも従わせることのできるお方として、その力を弟子たちに示されました。
今回は湖を渡った先でのできことです。カファルナウムを出て、ガダラ人の住む地方に渡ったとありますから、ガリラヤ湖を時計の文字盤に例えると、11時から5時方向に渡ったことになります。ガダラはガリラヤ湖南東に広がる10の都市からなるデカポリス地方の一都市でした。
この話にも登場する通り、豚が飼育されていましたので、明らかに宗教的な理由で豚を飼わないユダヤ人の住む場所ではありませんでした。そこへわざわざ足を運ばれたということに、この話の持つ大きな意義があります。
イエス・キリストはユダヤ人のための救い主であられるばかりではなく、異邦人にとっても救い主であられることが、この話から読み取ることができます。悪霊の支配に悩まされるのは、ユダヤ人に限らず、すべての人たちの悩みであり、その悩みに応えるお方として、イエス・キリストの行動が描かれています。
ガダラで出会った二人の男について、マタイによる福音書はこう描いています。
「悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。」
まず描かれるのは、彼らが墓場を居場所としていたということです。墓場は生きた人間が住む場所ではありません。そういう場所に好んで住みついていたのだとすれば、まともな感覚とは思えません。それは現代人の感覚かもしれませんが、しかし、この福音書の記者にとっても、読者にとっても異様な光景と映ったことでしょう。
まして、そこに住むことが彼ら自身の自由な選択ではなく、強いられてそこに追いやられたのだとすれば、何と悲しい現実でしょうか。
この二人の人は非常に凶暴であったと描かれています。ですから、彼らを追いやった人たちは、自分たちを守るための正当な措置であったと主張するでしょう。だれもその辺りの道を通れないほどであったのですから、自分たちの安全こそ心配の対象であったとしても、この二人の男の身の上を心配する者など誰もいなかったことでしょう。
しかし、イエス・キリストはそうではありませんでした。しばし足を止め、この男たちに関心を寄せられたのでした。
ここには悪霊にとりつかれた者とイエス・キリストとの会話が記されています。正確にはどこからどこまでがこの二人の男の発言で、どこからが悪霊の発言なのかを区別することはできません。それほどに、悪霊と男たちは一体化しています。
「神の子、かまわないでくれ」とは悪霊の本心であり、その悪霊に支配されたこの男たちの願いでもありました。
生けるまことの神と関わりたくないという思いを抱かせるのが悪霊の働きであるとするなら、正に、この男たちは完全に悪霊たちの支配下に置かれています。
そして、たちの悪いことに、悪霊は自分たちが生き延びることしか考えていません。追い出すくらいなら、豚の中に追いやってくれと願います。決して自分たちが今まで取りついていた二人が幸せになるためではありません。悪霊たちの都合です。
その願いに対して、イエス・キリストは「行け」とだけ一言お答えになります。この「行け」は悪霊たちに対する配慮の言葉ではありません。悪霊にとりつかれていた男たちに対する関心から出てきた言葉です。
さて、悪霊が乗り移った豚の群れは湖になだれこんで、水の中で死んでしまいます。ここで、わたしたちは町の人々の奇妙な行動に出会います。
町の人々は、イエス・キリストを見るために出てはきますが、結局はイエス・キリストを救い主として歓迎することなく、町から出ていくようにと願い出ます。
なくなった豚の損害を考えると、それは当たり前の感覚なのかもしれません。しかし、二人の男たちが悪霊の支配から解放されたことよりも、死んだ豚の価値の方がずっと上だと考えることは、けっして当たり前だと思ってはならないことです。自分たちが安泰であることの方が、この男たちの救いよりも大切だと感じることは、異常な世界です。そこに何の疑問も持たないところに、悪霊の支配の恐ろしさを垣間見ます。
町の住民は「神の子、かまわないでくれ」とは言いませんでしたが、ほぼそれと同じ言葉を口にしました。彼らもまたまことの神とかかわりを持つことを嫌う点で、悪霊に支配されていた二人の男と変わりないのです。
わたしたち人間にとって当たり前の感覚が、実はそれ自体が悪霊の影響を深く受けている感覚であることに気が付くことが大切です。
そして、イエス・キリストはそのようなわたしたちに関わり、悪霊の支配からわたしたちを解放してくださるお方なのです。