メッセージ: 風や湖さえ従わせるキリスト(マタイ8:23-27)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
神戸のメリケンパークにはコロンブスが初めて大西洋を横断したときに使われた帆船、サンタ・マリア号のレプリカがモニュメントとして置かれています。わたしはそれを初めて見たときに、あまりの小ささに驚きました。
昔、小笠原の父島に行ったときに乗った船が、春の嵐で一昼夜洋上を漂ったときの経験を思うと、よくもこんな小さな帆船で外洋を航行できたものだと正直思いました。
きょう取り上げる個所には、弟子たちとキリストが乗り込んだ舟が突風にあおられて、今にも沈みそうな話が出てきます。当時使われていたと思われる漁船がガリラヤ湖の周辺で1986年発掘されましたが、長さが8.6m、幅が2.3mでした。穏やかな湖ならまだしも、嵐の湖では心もとない大きさです。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 8章23節〜27節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。
きょうの個所は、少し前の8章18節につながる話です。イエス・キリストが弟子たちに向こう岸に渡るようにとお命じになったところへ、先週学んだように、弟子を志願する律法学者が現れて、ストーリーが中断していました。
時は更に前の16節にある通り、夕方のことでした。ガリラヤ湖の湖面は海抜よりもおよそ200m低く、更に周りは山々で囲まれています。特に西側には高い山々があります。夕方になって湖と陸地との温暖さが逆転すると、湖には上昇気流が発生し、周りを囲む山々から湖に向かって強い風が吹き下ろしてきます。特に昼夜の気温差が大きい時ほど風が強まります。
まさに、この日の夕方もそうでした。波は高まり、一行が乗った小舟は今にも波に飲み込まれそうになります。あまりの恐ろしさに、弟子たちは「主よ、助けてください。おぼれそうです」と叫びます。このとき、全部で何人の弟子たちが乗っていたのかは分かりませんが、弟子たちの内の少なくとも四人は漁師でしたから、舟の操りには慣れていたはずです。その弟子たちが、恐怖を感じるほどのことですから、この時の突風がどれほどのものであったのかが想像できます。
主イエスは、というと、眠っておられます。地上に降ってこられた神の子イエス・キリストは、私たちと同じように疲れを覚え、休息を必要とされるお方でした。神の子という点では、全知全能のお方ですが、同時に人間の性質をもった人の子としてのイエスは、肉体の痛みも疲れも知っておられるお方です。この騒ぎの中で眠ってしまうほどに、全力で福音宣教のために働いておられたということです。あるいは、このことが起こるのを知っておられたので、弟子たちを試すためにわざと眠っておられたのでしょうか。
弟子たちの叫びは、こんな時に眠っておられるイエス・キリストに対して苛立ちさえ感じ取れます。マタイによる福音書もルカによる福音書も、この場面の弟子たちの発言は、マルコによる福音書と比べて少し抑制されています。同じ場面を記したマルコによる福音書には、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と記されています(マルコ4:38)。
完全にイエス・キリストを非難する言葉です。マルコによる福音書は、「主よ、助けてください」という信仰的な言葉ではなく、弟子たちがイエス・キリストの無関心さを非難する言葉をそのまま記しています。
このマルコによる福音書の助けを借りて、話の流れを理解すると、それに対するイエス・キリストの発言の意味も違ったように聞こえてきます。
イエス・キリストがおっしゃる「なぜ怖がるのか」という言葉は、ただ波や風を恐れる弟子たちの不信仰を指摘する言葉ではなく、自分たちが見捨てられていると思い込んで、恐怖心を抱いてしまう弟子たちの信仰の薄さを指摘した言葉だということがわかります。
確かに弟子たちは、「わたしについて来なさい」(マタイ4:19)というキリストの言葉に、網を捨てて従ってきた人たちでした。しかし、徹底してキリストを信頼していたというわけではなかったのです。波風の恐怖の中で一瞬ではあったかもしれませんが、自分たちを見捨てるかもしれない、あるいは自分たちと一緒に滅んでしまうイエス・キリストのことを心に描いてしまったのです。
イエス・キリストが望んでおられることは、ご自分に対する心からの信頼です。どんな状況の中にあっても私たちを放置されるようなお方ではないという信頼です。キリストの弟子として求められているのは、どんな恐怖にも耐えることではなく、恐れの中にあっても、いえ、恐れの中にあるからこそ、キリストを信頼して頼る姿勢です。
では、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」という言葉に変えて、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と記すことによって、マタイ福音書は何を伝えようとしたのでしょうか。
確かにイエス・キリストを直接非難するかのような言葉を避けることによって、弟子たちの醜態を少しでも和らげる効果はあったかもしれません。そして、「主よ、助けてください」という言葉は、弟子たちにも少しの信仰があったことを示しているように見えます。
しかし、マタイによる福音書も結局は「おぼれる」という言葉はそのまま残しています。「おぼれる」と訳されている言葉は、「滅びる」という言葉です。文脈から考えて「おぼれる」とは翻訳していますが、もっとニュアンスが強いことばです。「滅びに」について口にするような弟子たちの絶望感がそこには表れています。
しかも「滅びそうです」というよりは、正に「滅びに向かっています」と翻訳したほうが良いでしょう。
後にイエス・キリストは弟子たちにこうおっしゃったことがあります。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」(マタイ10:29)。天の父のお許しがあるかどうかも分からないことを、自分はもう滅びに向かっているのだと先走って思い込んではならないのです。
しかし、この場面の弟子たちは、父のお許しが出て、自分たちは正に滅びに向かって進んでいるのだと明らかに思い込んでいます。波や風よりも恐ろしいのは、そう思い込んでしまう心です。そう思い込んでしまうことから来る恐怖心ほど、私たちの信仰を蝕むものはありません。
この時、イエス・キリストは起き上がって、風と波立つ湖を鎮められました。このことは一方では自然をも支配する力をイエス・キリストが持っておられることを示すと同時に、その力をもって、従う者たちに最大の関心を示されるお方でもあることを示しておられるのです。
弟子として大切なことは、最大の力をもって最大の関心を示してくださるイエス・キリストに信頼して歩むことです。