メッセージ: キリストの弟子となる覚悟(マタイ8:18-22)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
クリスチャンという言葉があります。日本語では「キリスト者」と訳されたり「キリスト教徒」と翻訳されたりします。
このクリスチャンという言葉ですが、その言葉が最初につかわれだした場所は、「使徒言行録」によれば、アンティオキアであったと記録されています(使徒11:26)。現在のトルコ南部にあるオロンテス川沿いの都市アンタキアがその場所に当たります。ここは、パウロたちを異邦人伝道へと派遣したキリスト教会があった場所でした。
いつクリスチャンという呼び名が使われ出したのかというと、クラディウス帝のときにユダヤ地方で起こった飢饉の頃のことですから(使徒11:27-28)、紀元45年ごろのことです。おそらくは自分たちが付けた呼び名ではなく、周りの人たちがそう呼び始めたのだと考えられています。
では、クリスチャンという言葉が使われる前には、キリストを信じて従っていく人たちに対してどんな名称が使われていたのでしょう。それまでは「弟子」と呼ぶのが一般的でした。もちろん、弟子たちが集まる共同体の中では、お互いを「兄弟」「姉妹」と呼び合っていたことは、パウロの書簡からも明らかですが、福音書の中でも使徒言行録の中でも、キリストを信じて従う人は「弟子」と呼ばれています。少なくとも主イエス・キリストは使徒たちに命じて、「すべての民を信者にしなさい」とはおっしゃらずに「すべての民をわたしの弟子にしなさい」とおっしゃっています(マタイ28:19)。
さて、きょう取り上げる箇所には、イエス・キリストに従おうとする者に対して、イエス・キリストがおっしゃった言葉が記されています。
それでは早速きょうの聖書の言葉をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 8章18節〜22節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」
きょうの話は、イエス・キリストを取り囲む群衆たちを離れて、湖の向こう岸に渡るようにと弟子たちにお命じになるところから話が始まります。マタイによる福音書の文脈の中では、その直前には、安息日の夕方になって大勢の人々が癒しを求めてやってきたことが記されていますから、その同じ群衆のことをマタイによる福音書は記しているのでしょう。日没が過ぎて暗くなり始める時間ですから、群衆を解散させる必要があったことも理解できます。
さて、群衆を置いて向こう岸に渡ろうとするイエス・キリストのところに一人の律法学者がやって来ます。今までにもこの福音書の中には律法学者についての言及が三回ほどありました。ここまでに登場する律法学者は、それほど悪い印象で描かれることはありませんでした。きょうの個所の律法学者も、キリストの教えに心惹かれて従って来ようとする純粋な律法学者と言ってもよいでしょう。
「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と語るこの律法学者の言葉には、特別取り立てていうべきことはありません。今まで登場した四人の弟子たちも、キリストがどこに行くにも従ってきた人たちですから、この律法学者も同じ志を表明したということでしょう。
ペトロたちとの違いを敢えて挙げれば、この律法学者はキリストから声をかけていただく前に、自発的に弟子となることを志願した点では違います。そして、「どこへでも従って参ります」という言葉の中に、黙ってキリストの後について行った四人の弟子たちとの違いを見ることができるかもしれません。
「どこにでも従って参ります」というこの律法学者の言葉には、固い決意の表れと同時に、それを実現できるという自信も見て取ることができます。
この申し出に対して、イエス・キリストはなぞかけのような言葉を口にします。
「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
「人の子」という言い方は、福音書の中では、ほとんどイエス・キリストがご自身を指して使う言葉です。その言葉の背景には旧約聖書から受け継がれてきた伝統があります。今はその詳細についての議論は置いておくことにして、ここでは、「自分には枕する所もない」という意味に理解しておきます。
イエス・キリストは山上の説教の中で、空の鳥や野の花が神によって豊かに養われていることを指摘して、それよりも価値がある人間はなおさらのことなのだから、思い煩ったりしないようにとおっしゃいました。
その教えから考えるとすれば、キリストの弟子である者は、養ってくださる神の恵みにまったく信頼して歩むことが求められるのは当然です。
しかし、イエス・キリストがご自分についておっしゃることは、それ以上の厳しさがあります。狐や空の鳥に安住するねぐらや巣があるとするなら、当然神は人の子にも安らぐ場所を備えてくださるはずです。しかし、「人の子には枕する所もない」とご自分についてイエス・キリストはおっしゃいます。
これはこれから先、メシアとしていばらの道を歩まれるイエス・キリストの将来を示した言葉です。そういうお方に従って行く覚悟は、この律法学者が抱いていた覚悟とはおそらく違っていたことでしょう。
神は確かにわたしたちの必要を満たしてくださるお方ですが、しかし、わたしたちが思い描く幸せや安定をそのままくださるお方ではありません。この世での困難や厳しさを覚悟する必要があります。
また、イエス・キリストは「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と願い出る弟子の一人に対しては、「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」とおっしゃいます。
これもなぞかけのような言葉に聞こえますが、主イエス・キリストが求めておられることは、優先順位の問題です。キリストに従うということに勝る優先順位を何か他のものに与えるとすれば、その時点でイエス・キリストは二番目でしかなくなってしまいます。ことあるごとに、他のものを優先していけば、イエス・キリストはもはや自分にとって従うべきお方ではなく、どうでもよいお方に成り下がってしまいます。
では、それらを完璧に守ることができなければ、イエス・キリストの弟子になることはできないのでしょうか。問い方を変えれば、ペトロたちはそれを守ることができたのでしょうか。少なくともペトロは自分がキリストの仲間ではないと、一度ならず口にしたことがありますから、完璧には守ることが出来なかったといえるでしょう。
大切なことは、自分にはそれができるという自信ではありません。イエス・キリストご自身が苦難の道を歩かれ、父なる神の御心を完全に最優先させる生き方をなさったということです。そのお方に従う上で大切なことは、このお方の力に頼るということです。私たちが弟子としてできることは、このお方の恵みに信頼し、このお方の力により頼むこと以外にはありません。そのことを何度も学ばされることが、弟子として生きる道なのです。