メッセージ: キリストの言葉のもつ力(マタイ8:5-13)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「権威」という言葉を耳にして、それを肯定的に受け止める場合と、拒絶反応に近い否定的な受け止め方をする場合と、二通りあるように思います。
たとえば、専門家の意見は、権威ある見解として一定の評価を持っていると考えられています。そういう場合の権威は肯定的に受け止められますし、専門家の権威に従うことにほとんどの人はためらうことはありません。
しかし、同じ権威でも暴力的な権威であったり、不正な仕方で手に入れた権威となると、話は全く違ってきます。そうした権威は失望を生み出し、やがては権威という言葉そのものに対して拒絶反応が起こってきます。
きょう取り上げようとしている個所は、この「権威」という言葉に対して、どういうイメージを持っているかで、受け止め方も違ってくるように思います。「権威」という言葉に権威が失われた文化圏では、あまりピンとこない話かもしれません。しかし、「権威」のもつ力が生き生きと働いている文化圏では、これほどにイエス・キリストの権威に対する信頼の証しはないと思われるような話です。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 8章5節〜13節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。
きょうの話の舞台となるのは、ガリラヤ湖の北岸にあるカファルナウムという小さな町です。ガリラヤ湖を時計に例えると11時ぐらいの方向にあります。この町は農業と漁業が盛んで、福音書の中では、しばしばイエス・キリストの活動の中心地として登場しています。このマタイによる福音書では、ナザレから移り住んだイエス・キリストが住む町として紹介されています(マタイ4:13)。
そこに一人のローマの百人隊長がキリストを訪ねてやってきたことから話は始まります。百人隊長はその名前の通り、百人隊と呼ばれるおよそ百人からなる実戦部隊を束ねる指揮官でした。その上に複数の百人隊を束ねる千人隊長と呼ばれる上級指揮官がいましたから、百人隊長自身も指揮系統のもとに置かれる身分でした。
その百人隊長の僕の一人が、中風で寝込んで苦しんでいたために、この百人隊長はイエス・キリストのもとを訪ねてやって来ました。
中風という病は、現代で言う「脳卒中」のことで、脳の血管が詰まったり破れたりして、脳の細胞が損傷してしまう病です。百人隊長がその人のためにわざわざ足を運んだのですから、この僕が百人隊長にとってどれほど愛おしい人であったのかが伺われます。また、そこには病に苦しむ人を見過ごすことができないこの百人隊長の心の優しさも見て取ることができます。
この百人隊長の訪問を受けて、イエス・キリストはさっそく僕が寝込んでいる百人隊長の家を訪ねようとします。けれども、意外なことに、この百人隊長はイエス・キリストのひと言が自分の僕の病を癒すのに十分な権威だと、その確信を語ります。
その権威への確信は、自分が軍隊生活で得た指揮命令系統の権威に対する経験から得たものであると同時に、そのような指揮命令系統の最上位に立っておられるイエス・キリストに対する信頼の表明でもありました。
イエス・キリストが様々な病を癒されることをこの百人隊長も耳にしていたからこそ、僕の病のために癒しを求めてキリストのもとを訪ねたことは明らかです。しかし、なぜキリストには病を癒す力があるのか、その理解は独特でした。
のちにファリサイ派の人々は「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」とイエス・キリストの力を悪霊の仕業と理解しました(マタイ12:24)。それとはまったく対照的な百人隊長の理解です。
この百人隊長は「権威」という枠組みの中でキリストの御業を理解しようとした人でした。病もまた何かの権威のもとにあり、病も決して独り歩きできるような権威があるわけではないという確信です。そして、その命令系統の中で、イエス・キリストこそ最上位に立っておられるとこの百人隊長は信じていたのです。
この百人隊長の確信に対して、イエス・キリストご自身が「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と驚かれます。
この百人隊長の理解の仕方は、伝統的なユダヤ教の信仰理解に生きてきた人たちとは異なっていたかもしれません。しかし、権威の存在を信じ、その権威のもとで生きる大切さを知っていると言う点で、またそう信じてその通りに生きようとする点で、この百人隊長の信仰は賞賛に値するものがありました。
このことは現代を生きる私たちにとっても考えさせられる信仰の模範です。
現代を生きる私たちにとって、権威という言葉は、あまり力がないかもしれません。それは、その人が経験してきた権威に対する失望が、権威に対する信頼を低めているという残念な事情があることも否めません。しかし、どんなに権威に対して懐疑的であったとしても、ほとんどの人にはだれにも譲れない権威があります。それは、自分自身という権威です。誰もが自分自身の権威を信じて生きています。しかし、その自分の権威をもってしてもどうにもならない事態に直面したときに、人はあっけなく立ち直れないほどの失望を味わいます。
しかし、この百人隊長の場合は、そうではありません。もともと自分も権威のもとに置かれている者であることを受け入れて生きていました。病もまた、自分の権威のもとにはないとしても、病がこの世界を支配する最高の権威ではないことを信じていました。こうした権威の秩序を思い描き、その中で生きようとするとき、人はもっとも恐れから解放されて自由に生きることができるのです。もちろん、その場合の最高の位置に何を置くのか、これこそが大きな問題です。この百人隊長はイエス・キリストの内に最高の権威を見出だし、その権威に喜んで自分自身を委ねた点で、私たちの信仰の模範者なのです。
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