聖書を開こう 2024年8月29日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  清くする力を持ったキリスト(マタイ8:1-4)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 病気に罹ることは、ほとんどの人が経験することです。それが軽い病で、生活に支障が出なければ、それほど気に病むこともないでしょう。しかし、生活に支障が出る病であったり、治療の方法が確立されていない病であったり、あるいは感染力の強い病であったりする時には、病そのもの以上の理不尽な苦しみを味わうことがあります。

 近年、新型のコロナウィルスが流行し始めたときには、病気で苦しむだけではなく、病気にかかったがために、転居を強いられる差別に苦しむ家族の話を耳にしたことがあります。誰しも病気になることを望んでそうなったわけでも、また重大な落ち度があって病気になったわけでもないのに、不要な責めまで負わされるのは、本当に悲しいことです。

 今日これから取り上げる個所には、病に苦しむ一人の男性が登場します。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 8章1節〜4節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」

 きょうからマタイによる福音書の学びも8章へと入ります。今まで山上の説教と呼ばれる個所を3章にわたって連続して学んできました。8章に入って、イエス・キリストがなさった癒しの御業が三つ続けて記されます。

 イエス・キリストの活動は、教えを宣べ伝えるだけにとどまらず、病に苦しむ人たちをその苦しみから解放する癒しの業にもありました(マタイ4:23)。

 8章に入って最初に記されるのは、重い皮膚病を患う一人の男性の話です。

 この話を理解するためには、この男性が患っている「重い皮膚病」について知る必要があります。この病気が現代の病名でどんな病気を指すのかは定かではありません。ただ、旧約聖書のレビ記13章にこの病についての扱いが詳しく記されています。。

 その記述によれば、この病は「病気」であるという以上に、宗教的な「汚れ」と結びつけられています。「清さ」と「汚れ」は特にこのレビ記の中では繰り返し出てくる重要なテーマの一つです。従ってその診断は医者ではなく、祭司が行いました。それも、病であることを宣告するのではなく、汚れているか清いかを宣告するものでした。

 「汚れている」と宣告された者は、再び祭司によって「清い」と宣言されるまで、二つのことを守らなければなりませんでした。一つは、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならないことでした。他の者が自分に近づかないように、自分の口でそれを警告しなければならないのは、患者にとっては苦痛であったでしょう。

 もう一つは、独りで宿営の外に住まねばならないということでした。病にかかることからくる不安もさることながら、独り隔離されることから来る不安も大きかったことでしょう。

 ただ、レビ記の記述の中では、この病が特定の罪と結びつけられて論じられることはありません。

 しかし、聖書の中にはミリアムのように、モーセに対する不満を口にしたために、罰としてこの病にかかった例や、ウジヤ王のように、祭司にしか許されない職務を勝手に行ったことで、神からの罰を受けてこの病に罹った例があります。そのことから、後のユダヤ教の議論の中で、この病が中傷の罪や高慢の罪、貪欲や不道徳の罪などと結びつけられて論じられるようになったのも事実です。

 この病にかかり、「汚れている」と宣告を受けたときに、そうした罪を犯した者に違いない、という周りからの偏見にも苦しめられたであろうことも十分に考えられます。

 そうした背景を頭の片隅に置きながら、今日の個所を改めて読み直すと、様々なことが見えてきます。

 今日の場面は、重い皮膚病を患っている一人の人がイエス・キリストに近寄って来るところから始まっています。

 先ほども触れたように、この病にかかり「汚れている」と宣告された人は、人が近づかないように「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらなければなりませんでした。しかし、この人は敢えてキリストに近づいていきます。律法の掟に反してでも癒されたいと願う、その切羽詰まったこの人の心が見えてきます。そしてそのような決断の背景には、その人がこの病を得てから今に至るまで受けた様々な痛みや苦しみや悲しみが見えてきます。

 そればかりではありません。何よりもこの人が持っているイエス・キリストへの信仰と期待も垣間見ることができます。

 「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」

 この言葉にキリストに対するその人の信仰が言い表されています。イエス・キリストがそのような力を持っていることをどこで耳にしたのか、あるいは目にしたのかは分かりません。しかし、御心であれば、必ず主イエスは自分を癒してくださるという固い信仰が言い表されています。

 疑いながらではなく、まったき信頼をもってキリストに助けを求めることの大切さを思います。

 それに対するイエス・キリストの応答にも目を見張るものがあります。

 「イエスが手を差し伸べてその人に触れ」と記されています。「汚れた者」と宣告されて以来、誰一人としてその人に手を差し伸べて触れる人などいなかったでしょう。しかし、イエス・キリストは違います。手を差し伸べるばかりか、その人の体に触れてくださるお方です。その時点で、イエス・キリストはその人を「清いもの」として受け入れておられることを示しています。

 その上で、イエス・キリストはその人に向かって「よろしい」とおっしゃっています。「よろしい」と翻訳された言葉は、「わたしは欲する」「わたしは望む」という言葉です。病に苦しむこの人が「あなたが望まれるなら」と言ったのに対して、「わたしは望む」とそう返してくださっているのです。この男の人にとって、これほど慰めに満ちた言葉はなかったでしょう。

 そして、その言葉に続いて「清くなれ」とおっしゃいます。祭司はただ清いか汚れているかを診断するだけで、その人を清くすることはできませんでした。しかし、イエス・キリストは違います。イエス・キリストこそわたしたちの悩み苦しみに寄り添い、わたしたちを清めてくださるお方なのです。

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