聖書を開こう 2024年8月22日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  御言葉に生きる(マタイ7:24-29)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書の教えに従って善い業に励みましょう、という表現に対して、その言葉をそのまま受け取ることに過敏なな反応を示す人たちがいます。特に、行いではなく信仰によって義とされることを強調するプロテスタントの教理を叩き込まれてきた人たちにとっては、余計にそうであるかもしれません。

 しかし、そこには「善い業」に対する誤解があるかもしれません。確かに罪人である人間が自分の力で神の義を完全に満足させるような「善い業」を行うことができないことは、聖書自身が教えている通りです。信仰によって義とされることを強調するパウロの教えも、そうした人間の罪の問題が前提になっています。

 けれども、キリストを信じる信仰によって罪を赦され、義と宣告された者たちが、神の子らに相応しく生きるように聖書が求めていることも事実です。それは救われるための行いではなく、罪を赦していただいたことへの感謝の表れとしての行いです。また、同時にそれは信じる者たちを神の子らにふさわしく整えてくださる聖霊の働きでもあります。

 そういう意味で、イエス・キリストを信じる者たちが、聖書の教えに従って善い業に励むことに無関心であってはなりません。

 きょう取り上げようとしている個所には、イエス・キリストの言葉を聞いて行う者についての教えが記されています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 7章24節〜29節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

 きょう取り上げた個所は、先週学んだイエス・キリストの教えと密接に関係しています。前回取り上げた個所にはこう記されていました。

 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7:21)

 そこでも「神の御心を行う」ということが強調されていました。ただ、先週もお話ししましたが、この言葉は既にキリストの弟子であることを前提にした言葉です。そもそもキリストを信じていない者が「主よ、主よ」などと呼びかけることもないからです。

 今日の個所では、行いを伴わない信仰が、どれほど危ういものであるかをたとえ話をもってキリストは教えてくださっています。

 そのたとえ話は、とてもシンプルで明快です。イエス・キリストの言葉を聞いて行う者と行わない者とを、家の土台の違いに例えています。

 イエス・キリストの教えを聞いて行う者は、岩の上に家を建てた賢い人に似ているとおっしゃいます。他方、イエス・キリストの言葉を聞くだけで、それを行わない者を、砂の上に家を建てた愚かな者だとおっしゃいます。

 両者の違いはすぐには明らかにはなりません。出来上がった家はどちらも見た目や住みやすさには大差は感じられないでしょう。敢えて言えば、家が出来上がるまでの時間に差があったかもしれません。ただ、それよりも大きな違いは、大雨が襲い、川が氾濫し、風がその家に吹きつけてきたときに明らかになります。一方はしっかりと建ち続け、他方は倒れてしまいます。岩の土台を持つか、土台にもならない砂の上に家を建てるかでは、大きな違いが出るのも当然です。

 そうであるからこそ、イエス・キリストの言葉を聞いて行うことが大切だとイエス・キリストは明白に教えておられます。

 しかし、それにもかかわらず、この言葉を聞いてそれを実践することにためらいを感じる自分がいることも確かです。それは、この教えに対して反論があるからではありません。自分にそうできる自信 がないからです。たいていの人はこの教えを聞いて、欠点だらけの自分には、イエス・キリストの言葉通りに生きることなど不可能と思えるでしょう。そして、それは正直な感想でもあると思います。

 けれども、イエス・キリストが山上の説教の中で教えてくださったことは何かをもう一度考えて見る必要があると思います。

 山上の説教の冒頭でイエス・キリストが語ってくださった「幸いな人たち」とは何だったのでしょうか。そのように生きよという命令だったのでしょうか。そうではなく、むしろイエス・キリストを信じ、神に頼って生きる人の姿を描いたものではないでしょうか。今の現実がそうでないとしても、そのような幸いな人へと変えてくださる未来図のようなものです。それも遠い未来のことばかりではありません。

 山上の説教は、そのような幸いな人へと変えられていくために、知っておくべき大切な教えがちりばめられていると言うべきです。その一つ一つをここで繰り返すことはできませんが、そこには、貫かれた教えがあります。それは、わたしたちへの配慮に満ちた神がおられ、その神に信頼して生きることの大切さです。私たちの必要を祈る前からご存じの神がおられ、必要なものをすべて与えてくださる神です。

 確かに敵を愛し、迫害する者のために祈ることは難しいかもしれません。しかし、この教えを実行しようとするときに先ず思い浮かべるべきことは、神に敵対して生きてきた自分を赦し、受け入れてくださっている神がいらっしゃいるということです。ですから、何よりも求められていることは、そのような神を思い起こし、そのような神の慈愛の中に留まり続けながら、隣人との関係を自分が受けた恵みの中で構築しなおしていくことです。

 それでも、それらを御心通りに果たしていくことは不可能だと思われるかもしれません。しかし、そう思うわたしたちに、山上の説教の中でイエス・キリストは「求め続けよ、探し続けよ、たたき続けよ」と励ましてくださっています。なぜなら神は善いものを必ずくださるお方だからです。

 隠れた所におられる天の父なる神にだけ目を注ぎ、このお方の力に信頼して歩み続けること、そのことをイエス・キリストはこの山上の説教の中で私たちに求めておられるのです。

 自分には何でもできると過信し、神の愛に対する信頼を忘れるときにこそ、人は最も危ういのです。それこそ砂の上に家を建てるようなものです。

 神の愛はイエス・キリストにおいて最も鮮明に示されています。この土台の上に家を建てることとは、イエス・キリストによって示された神の愛に信頼し、その愛に依り頼んで生きることにほかならないのです。

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