メッセージ: 神の御心を行う者だけが(マタイ7:21-23)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
主イエス・キリストについて、どんなイメージをもっておられるでしょうか。愛に満ちたお方。罪人や弱い立場の者たちに寄り添い、悲しみを共にしてくださるお方。そんなイメージでしょうか。「慈しみ深き、友なるイエス」という讃美歌の歌詞にある通り、確かに主イエス・キリストは私たちの罪や咎、愁いを取り去ってくださるお方です。
しかし、その一方で、イエス・キリストの口から出る厳しい言葉にうろたえてしまうこともあります。きょう取り上げようとしている個所には、そうした厳しいキリストの言葉が記されています。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 7章21節〜23節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
まずイエス・キリストのこの言葉に触れたときに思うことは、一体この言葉は誰に向けて語られた言葉なのか、ということです。前回学んだ偽預言者に対する警告は、その警告を聞かされた人たちが偽預言者であったわけではありません。偽預言者はむしろ弟子たちの集団の外にいる人々でした。しかし、きょう取り上げた個所が想定しているのは、明らかにこの山上の説教を聞いている弟子たちです。
イエス・キリストに向かって「主よ、主よ」と呼びかけている点、キリストの名によって預言したり、奇跡を行ったりしている点、どの一つをとっても、イエス・キリストの弟子であると、誰もがそう思う人たちです。
では、一体何が本物の弟子と偽物の弟子とを区別しているのでしょうか。それは、天の父の御心を行う者かどうか、という区別です。神の御心を行わない者は、不法を働く者として、退けられています。残念ながら、神の御心は行わないけれども、不法を行う程の者ではないという、中間の弟子の存在はありません。
ここまで聞くと、いったい誰がキリストの弟子として最後まで残ることができるのだろうか、という疑問がわいてきます。それは、罪を犯さない人がいるのかどうか、という疑問につながります。
キリストを信じる者たちは、罪を赦された人たちではありますが、この地上にある限り、絶対に罪を犯さないという意味で、罪から完全に解放されているわけではありません。ヨハネの手紙一にも記されているとおり、「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません」(1ヨハネ1:10)。このヨハネの言葉は、既にキリストに対する信仰を持っている読者に対して書かれた言葉です。しかも、それは単に信仰に入る前のことを言っているのではありません。前後の文脈からそれは明らかです。
もし、そうであるなら、誰一人として、キリストの弟子として、最後まで立つことはできません。
しかし、ここで問題なのは、「神の御心を行う」とは何か、という問題です。確かに罪を犯さないことは神の御心です。そもそも罪とは神の御心に反することですから、聖書のどこをどう読んでも、罪を犯すことが神の御心であるはずはありません。
けれども、そもそも罪のうちにある人間に対する神の御心は、単に十戒に代表される神の掟を守ることだけにあるわけではありません。旧約聖書の時代には、神は罪を贖うための様々な儀式を定めて、これを守るようにとお命じになりました。これらの儀式は罪を前提としていますが、それを守ることで罪の赦しを得ることができました。
言い換えるならば、神の憐れみを信じ、神の恵みにひたすら依り頼んで生きることも、罪ある人間にとって、神の御心に生きる生き方なのです。自分ではどうすることもできない罪の問題を、ただ神の恵みと憐れみに依り頼んで生きること、そのことを神は望んでおられます。そして、新約時代に生きる私たちにとっては、イエス・キリストこそ救いのために遣わされたお方として、私たちが依りすがるべき唯一のお方です。
そうであればこそ、「主よ、主よ」と唱えるだけの口先の信仰であってはならないのです。また、キリストの名によって預言したり、奇跡を行うことは、神が願う信仰の本質でもありません。罪赦されて神のみ前に受け入れられることを願い、ひたすら神が備えてくださった救いの道に依り頼むこと、これこそが神の御心です。
イエス・キリストに依り頼むということは、イエス・キリスト以外のものに依り頼まないということは言うまでもありません。それは、自分自身の力にも依り頼まないということです。それはまた、自分自身に失望し、自分自身を裁いてしまうことでもありません。確かに罪を犯してしまう私たちは、相応しい罰を受けるべき存在です。けれども、その裁きを行うのは私自身ではなく、神ご自身です。そうであればこそ、救いのために自分自身の裁きを神の憐れみに委ねるほかはありません。その信仰が求められているのです。
では、罪を犯さない努力や十戒に代表される掟を守る努力は意味のないことなのでしょうか。イエス・キリストはご自分の弟子たちにそういう努力は期待しておられないのでしょうか。
それによって自分自身の罪を解決できるという意味では、罪人である私たちにそのような努力を期待してはおられないでしょう。むしろ、イエス・キリストが来られたのは、病人に医者が必要なのと同じように、罪人には救い主が必要だからです。病人が自分の努力で病気を癒すことができるのなら、医者を必要とすることはないでしょう。しかしながら、健康を回復していただいた者がその健康を維持することは大切です。それと同じように、罪赦された者が罪の世界に別れを告げて、神の御心に従ってこれからを生きようとすることは当然のことです。
洗礼者ヨハネによって「わたしの後から来る方」として紹介されたイエス・キリストは「聖霊と火」で洗礼を授けるお方です。私たちを清める聖霊をお与えくださるお方ですから、与えられた聖霊の恵みに謙虚に信頼して歩むことも大切です。「人間にできることではないが、神は何でもできる」(マタイ19:26)とおっしゃってくださるイエス・キリストの言葉に信頼し、聖霊なる神の力に依り頼んで生きることもまた、神の御心にほかなりません。
パウロはキリストに結ばれた人を「新しい人」を身に着けた人と呼んでいますが、その新しい人は「日々新たにされて」いる新しい人です(コロサイ3:10)。完成への途上にある者として、口先ではなく、心からの信頼によって歩み続けることこそが、キリストの弟子として生きる道なのです。