聖書を開こう 2024年8月8日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  実によって見分ける(マタイ7:15-20)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 言葉よりも行いを見てその人を判断する、というのはその通りだと思います。口先だけで行いが伴わなければ、誰がその人を信用するでしょうか。しかし、またそのように見られることを意識して、良い子を演じることも人間は得意です。そうなると信頼できる人を見分けるのは簡単ではありません。

 もっとも自分とあまり関わりない人なら、口先だけの人であろうが、偽善的な人であろうが、どうでも良いことかもしれません。しかし、自分にとって重大な影響を与える立場の人が、そのような偽善者であったり、言っていることに反して自分に害悪をもたらす人であったら、一刻も早く発見したいものです。

 イエス・キリストは偽預言者を警戒するようにと山上の説教の中で語っています。ここでいう偽預言者とは一体どんな人たちのことなのでしょうか。また、どのようにしてそれを見分けることができるのでしょうか。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 7章15節〜20節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」

 聖書が言う預言者の働きは、ただ単に未来に起こることを予言する人とは違います。「予告」の「予」ではなく、「預金」の「預」、「預かる」という字を敢えて使っているのには意味があります。それは、預言者は自分から何かを語る人ではなく、神から語るべき言葉を預かって、民に神のみ旨を伝える人だからです。

 旧約聖書の時代から神は様々な預言者を用いてご自分の民を導いて来られました。それに対して、神から直接啓示を与えられたのでもないのに、あたかもそれが神の御心のように語り聞かせる者が偽預言者です。

 旧約聖書の時代には預言者エレミヤやエゼキエルが、こうした偽預言者と戦った人々でした(エレミヤ23:9-40、エゼキエル13:3-9)。例えばエレミヤは偽預言者ハナンヤと戦ってその語る言葉を退けました。ハナンヤは自分の心の内にある楽観的な希望を述べて、バビロンからの解放が近いと予言します。それに対してエレミヤはこう述べました。

「ハナンヤよ、よく聞け。主はお前を遣わされていない。お前はこの民を安心させようとしているが、それは偽りだ。それゆえ、主はこう言われる。『わたしはお前を地の面から追い払う』と。お前は今年のうちに死ぬ。主に逆らって語ったからだ。」(エレミヤ28:15-17)

 イエス・キリストが具体的に誰を念頭に置いて「偽預言者」と語っているのか、名指しこそしてはいませんが、律法学者やファリサイ派の人々を念頭に置いていたのかもしれません。というのはこの山上の説教では「律法学者やファリサイ派の人々の義」(マタイ5:20)を念頭に、その言い伝えや形式主義を痛烈に批判しているからです。この福音書の23章では、イエス・キリストは律法学者やファリサイの人々を批判してこう語っています。

「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」(マタイ23:4)

 また、ルカによる福音書では「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」と律法学者を非難しています(ルカ20:47)

 いずれにしても、イエス・キリストが掲げる偽預言者の特徴は「羊の皮」を身にまとっていること、しかし、その中身は「貪欲な狼」であるという点です。

 羊の皮を身にまとっているのですから、外見から本物と偽物とを見分けることは困難です。一見善良そうに見え、信頼できる人に見えるからといって騙されてはいけません。これは偽預言者に限らず、この世の詐欺師にも言えることかもしれません。

 ではどのようにして、偽預言者と本物の預言者を見分けるのでしょうか。イエス・キリストは「あなたがたは、その実で彼らを見分ける」とおっしゃっています。偽預言者たちの真の姿を見極めるためには、彼らの言葉や行動の結果を見ることが必要です。良い木が良い実を結び、悪い木が悪い実を結ぶように、真の預言者は良い行いと正しい教えをもたらしますが、偽預言者は混乱や悪をもたらします。

 木が実を結ぶというたとえは、とても分かりやすいたとえですが、しかし、ある種の緊張感を私たちにもたらします。というのは、木はすぐに実を結ばないからです。実を結んでから気が付いたのではむしろ遅すぎるくらいです。

 しかし、実際の生活の中で考えると、実を見て初めてそれが何の木であるかを知ることはほとんどありません。茨を見てぶどうが収穫できることを期待する人はいません。アザミを見ていちじくがなるかもしれないと思う人もいないでしょう。

 そうであるならば、実を見る前に、木そのものを知った方がよさそうです。ただ偽預言者の場合、「羊の皮」が邪魔をして、中々本質を見抜けないというのが現実です。結ぶ実は最終的な判断の基準であることは間違いありません。しかし、可能であれば、その前に偽預言者を見分けることができれば、それに越したことはありません。

 私たちに、その希望がないわけではありません。というのは、聖書66巻が確定していないイエス・キリストの時代には、その人が語る言葉からその人の本質を見抜くことはとても難しいことでした。少なくとも今の時代は、その人が語る言葉が聖書で語られている神の御心と合致しているか、判断することができます。少なくとも聖書以外の教えを持ちこもうとしている人には注意が必要です。

 もちろん、聖書に合致しているかどうかを判断することは、言うほど簡単なことではないかもしれません。実際、聖書は何を語っているのか、キリスト教に様々な教派が存在する数分だけ、理解も異なっています。ただ、重箱の隅をつつくような議論は別として、長い歴史の中で培われてきた聖書解釈の理解には、共通した伝統があることも事実です。その理解から大きく外れることを語っている者たちには注意が必要です。

 もっとも、伝統的な理解から外れたものがすべて偽預言者であるか、というと必ずしもそうとは言えません。そうであるなら、宗教改革運動そのものも否定されてしまうでしょう。

 新しいことを主張し始める人々には特別な注意を払うことが必要なのは当然です。その上で、その教えが聖書の教えと合致しているかは、その都度真剣な検討が必要です。

 ただし、最終的には、その結ぶ実で判断するようにというのがイエス・キリストの教えですから、それが明らかになるまで忍耐することも必要です。しかし、その教えによって少しでも神への愛と隣人への愛に反する結果が見え始めるときには、偽預言者として退ける勇気が大切です。

Copyright (C) 2024 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.