メッセージ: 狭い門(マタイ7:13-14)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「狭き門」という言葉を聴くと、真っ先に頭に思い浮かべるのは、難関校を目指して勉学に励む受験生の姿でしょうか。あるいは、希望する会社の内定を中々取ることができないで、焦りを感じている就活生の姿でしょうか。どちらもそのシーズンになると、テレビの画面からはニュースと共に「狭き門」という言葉が流れてきます。
それ以外の場面で「狭き門」という言葉が使われることはほとんどないといってもよいかもしれません。もはやその使われ方は、聖書を離れて独り歩きしています。もともとがキリストの言葉であったという事実すら忘れられているかもしれません。そして、「狭き門」という言葉には選ばれた者だけが入ることが許される「エリート」意識が見え隠れしています。
果たしてイエス・キリストはそのような意味で「狭き門」という言葉を使われたのでしょうか。ご一緒に聖書から学びたいと思います。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 7章13節〜14節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
イエス・キリストが「狭い門」について語っておられるのは、滅びに通じる広い門に対して、命に通じる門の狭さです。「命」と「滅び」という両極にある対比から、狭い広いを問題にされておられるのです。イエス・キリストが語っておられるのは門の広さや狭さだけではありません。そこに通じる道もまた広かったり細かったりします。
では、狭い結果、何が起こるのでしょう。当然道が狭ければ一度に通れる人数が限られてしまいます。門であれば、大きな荷物を抱えて通れないことも起こってきます。しかし、イエス・キリストは門の狭さゆえに、また道の細さゆえに、通るのが困難だとはおっしゃっていません。むしろ、狭すぎて、細すぎて、それを見出だす者が少ないとおっしゃっています。そこが一般社会で使われる「狭き門」とは大きく違う点です。
世間一般で使われる「狭き門」は誰もが知っていて人気が高いがために、かえって入ることが困難な「狭い門」です。しかし、イエス・キリストがおっしゃる狭い門や細い道は、あまりにも目立たないために、そこが門であり、道であることに気が付かないような狭さです。競争が激しくて入ることができない門でもなければ、選ばれた者だけが通ることができる道でもありません。
当たり前のことですが、大通りはすぐに見つけることができます。しかし、狭い路地は見落としてしまいます。門構えが大きければ目立ちますが、ひっそりとした入口は通り越してしまいます。
イエス・キリストは命に至る門、命に至る道は正に狭さのために見出す者が少ないと嘆いておられるのです。
もちろん、ここで言われている「命」とは生物的な「命」のことではありません。聖書が問題にしている「命」は神の前に生かされている「命」の問題です。神が永遠であられるように、その神とともにいつまでも歩むことができる、そういう命の問題です。
そして、その命に対比されるのは、通常であれば「死」という言葉が用いられます。しかし、イエス・キリストは「命」に対して「滅び」という言葉を敢えて用いています。「死」は動物の死も含めて、誰もが知っています。そして、それは避けることができないものという認識を通りこして、生きとし生けるものにとって、当たり前の現象とさえ思われがちです。
けれども「滅び」という言葉には、「死」よりももっと否定的で重たいイメージが伴っています。たとえば、「あなたは必ず死にます」と言われれば、当然のことと受け止めることもできます。しかし、「あなたは必ず滅びます」と言われるならば、聞捨てならない言葉のように聞こえるでしょう。
「滅び」という言葉を敢えて用いて、イエス・キリストは人々の注意を喚起しています。あなたの最後は滅びだと宣告されれば、それまで生きてきた道がすべて否定された気分になります。しかし、それにもかかわらず、死が滅びである現実に疎くなり、命の道を探そうとしないのが人間です。
大多数の人が選ぶ道は安全だと思い込むことの中に、大きな危険が潜んでいます。ただの処世術であれば、大多数の意見に従って生きれば問題も起こることが少ないのは事実です。しかし、イエス・キリストがここで問題にしておられるのは、神の前に生きる「命」の問題です。そこでは大多数の人間の考えがことの正しさを証明するのではありません。命をお造りになった神だけが知っておられる命についての真理があります。その神に聞くのでなければ、どんなに大勢の人が声を一つにして語る言葉があったとしても意味がありません。
イエス・キリストは人々にこう警告なさっています。
「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」
何となく人の流れについて行ってしまうということは、実際の生活の中でもおこりえることです。初めて降りた駅で改札口を見つける方法は、人の流れを観察してその流れに乗ることです。しかし、改札口がいくつもある駅で、目的の改札口に正しくたどり着くためには、大勢の人の流れに乗るだけでは足りません。目的の改札口の標識を見落とさないことが大切です。
同じように、正しく命に至るためには、正しくそこに至る道を見出だし、そこに至る門を見出すことが大切です。
イエス・キリストがこのことをお語りになったのは、山上での説教の終わり近くになってからです。言い換えるならば、この言葉は山上の説教を聞く者たちへの警告の言葉ということができます。
裏を返せば、神と共にある永遠の命を真剣に求めるようにとの勧めの言葉です。なんとなく生きて来た者たちに対して、自分自身で考え、自分自身で探し求めることの勧めです。
イエス・キリストはヨハネによる福音書の中で、ご自分を門に例え(ヨハネ10:7)、また道に例えておられます(ヨハネ14:6)。そういう意味では、イエス・キリストこそが命への門であり道です。今でこそキリスト教の存在は広く知られていますが、しかし、命に至る門として、イエス・キリストを見出だす人の数は、今でも決して多いとは言えません。そういう意味では、命に至る門は今でも狭いと言うことができるのです。