聖書を開こう 2024年7月25日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  黄金律



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「黄金律」と呼ばれる教えがあります。キリスト教では、きょう取り上げようとしているイエス・キリストの御言葉がまさに「黄金律」です。同じような教えはほとんどの宗教や教えに見られるものです。

 例えばキリスト教の母体ともいえるユダヤ教には、「自分が嫌なことを他人にしてはいけない」(タルムード、シャバット 31a)という教えがあります。

 イエス・キリストがおっしゃる「黄金律」とはどこが違うのでしょうか。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 7章12節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

 先ほど、似たような教えとして、ユダヤ教のタルムードから引用しましたが、その言葉はラビ・ヒレルの言葉でした。ヒレルはイエス・キリストよりも少し前に活躍した人物です。

 「律法(トーラー)のすべてを立っている間に答えてほしい」という質問に対して、ヒレルは「自分が嫌なことを他人にしてはいけない。これが律法のすべてであり、他はその解釈である」と答えました。

 神の律法が何を中心的な教えとしているか、と考える点では、ラビ・ヒレルの教えもイエス・キリストの教えも共通しています。ただイエス・キリストの場合は「律法と預言者」という言い方をしていますから、モーセの律法ばかりではなく預言書も含めた聖書全体を視野に入れて神の御心を考えているという点では、違っています。

 違いは他にもあります。ヒレルの教えは「してはならない」という点に力点が置かれていますが、イエス・キリストの教えは、「行う」方に力点が置かれています。

 もっとも、その違いは、物事を消極的な面から見るか、積極的な面から見るかの違いなので、それほど大きな違いではないといえるかもしれません。ただ、世の中の黄金律は、ほとんどが「しない」ということの方に力点が置かれているのも事実です。

 仏教やヒンドゥー教も、ユダヤ教と同じように、消極的な言い方で黄金律を規定しています。

 「自分にとって苦痛となるような行為を他人にしてはならない。」(ウダーナヴァルガ 5.18)

 「これは義務の要約です。自分がされて苦痛に感じることを他人にしてはならない。」(マハーバーラタ 5:1517)

 中国の孔子も同じように消極的な言い方で「己の欲せざる所を人に施すなかれ」(論語「顔淵第十二」)と教えています。

 害悪を嫌うのは人間の本質ですから、そのような害悪を人にもたらさないというのは、当然の規律です。それが思いやりであったり、人をいつくしむ気持ちにつながっていることは言うまでもありません。自分の幸せのためなら、他人が多少の苦痛を味わうことには気もとめないとする生き方は言語道断です。

 けれども。害悪を与えない、迷惑をかけないということにだけ心が行ってしまって、隣人の必要に心を向けることができなくなってしまうのならば、それこそかえって害悪を助長してしまいかねません。

 イエス・キリストの教えは、何かをしないことで終わるのではありません。何かをすることを積極的に求める教えです。その根本には、人を愛することとは、何かを「しない」ことではなく、何かを「する」ことで積極的に築き上げていくものであるという前提があるように思います。

 もちろん、他人からしてもらいたいと思うことは、人それぞれですから、それをそのまま実行すれば、場合によっては大きなお世話であったり、要らぬお節介であったりするかもしれません。そうなることを恐れて、結局は何もしないのが一番だと考えてしまうところに、私たちのもっとも大きな問題があるのかもしれません。そして、しばしば、そのことが口実となって、誰かのために何かをしないことが正当化されてしまいがちです。

 確かに独善的な親切ほど迷惑な話はありません。自分が甘いものが好きだからと言って、みんなに甘いものを食べさせるのが良いとは限りません。しかし、そんなことは少し考えれば分かりきったことです。イエス・キリストがおっしゃっておられる「人にしてもらいたいと思うこと」とは、そういう個人的な好みの問題ではありません。

 マタイによる福音書に記されたイエス・キリストの黄金律は「だから」と言う言葉で始まっています。その場合の「だから」という言葉は、直前の「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」という文脈の中に置かれています。罪人にすぎない人間でさえ、求める子どもに対しては、良いものを与えるのですから、天の父である神が、求める者に対して、良いものをくださらないことはありません。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」とキリストは言葉を繋いでいます。

 この論理のつながりは必ずしも明快とは思えません。しかし、この文脈の中ではっきりしていることは、私たちの求めに対して、神は最善の良いものをもって応えてくださるということです。それは神の愛とも言うことができます。

 そのような神の愛に生かされている私たちは、何をなすべきなのか、それがイエス・キリストが教えてくださった黄金律を読み解く鍵であるように思います。

 イエス・キリストの黄金律の前提には、私たちに対する神の愛が先行しています。私たちは神のように相手にとっての必要を完全に知っているわけではありません。また、その必要を神のように満たす力もありません。ただ、神が私たちに与えてくださる最善と、そこからもたらされる喜びを頼りとして、そこから相手にとっての必要を考え始めるよりほかはありません。また私たちが誰かに与えることができるとしても、神から与えていただいたもの以上に与えることはできません。

 けれども罪深い私たちは、その神の愛を忘れがちであると同時に、神からいただいたものを分かち合う寛大さにしばしば欠けてしまいがちです。そうであればこそ、黄金律の前に置かれたあの「だから」という言葉には重みがあるのだと思います。

 満ち溢れるほどの神の愛と恵みの中に生かされているからこそ、そしてそう信じているからこそ、他者に対して積極的に関わることで、神の愛に応える道が開かれているのです。

 そのような生き方こそが、律法と預言者を通して、神が私たちに求められていることなのです。

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