聖書を開こう 2024年7月4日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  人を裁いてはならない(マタイ7:1-5)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 良いものと悪いものとを見分ける力、正しいものと不正なものとを識別する力、これは人間に備えられた素晴らしい能力です。しかし、それをどう使うか、その使い方を間違うと、自分自身に災いが及びます。

 きょう取り上げるイエス・キリストの言葉には、他人を裁いたり、批判したりすることへの警告が述べられています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 7章1節〜5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」

 きょう取り上げたイエス・キリストの言葉は、取りようによっては、自分が裁かれないために、他人の悪事にはお互い目をつぶろう、と言っているようにも受け取られてしまいます。しっぺ返しを受けないために、何か不正を見つけても、積極的にそれを摘発しないほうが良い、という処世訓とも読めなくはありません。

 確かに「裁かれないように」という言葉に重きを置いて読んでしまうと、そういう結論に陥ってしまいます。

 そもそも、「裁かれないように」とは、誰によって裁かれないように、ということでしょうか。当時のユダヤ人たちが主語を明確しないで、受け身の形で表現するときには、その主体が「主である神」であることが暗示されています。たとえば「与えられる」とは、主である神が与えてくださることです。同様に「裁かれる」とは主なる神がお裁きになるという意味です。

 そういう言う意味で、人を裁いたその本人を裁くのは、その裁きを被った人によってでもなければ、その裁く姿を目撃した周りの人々によってでもありません。神ご自身が裁きの主体です。人間のしっぺ返しや揚げ足取りを恐れて、イエス・キリストは「人を裁かないほうが良い」とおっしゃっているのではありません。

 言い換えるならば、「人を裁くな」という教えの前提には、「神があなたをお裁きになる」という厳粛な事実があるのです。人を裁くその人は、自分が神によってさばかれるという厳粛な事実を受け止める覚悟が必要です。

 「自分のことを棚に上げて」という表現があるように、人はしばしば他人の罪には敏感で、自分の罪には鈍感です。同じ罪人であるにもかかわらず、自分のことは棚に上げて、一方的に断罪することが得意です。人を裁くときに、自分もやがては神に裁かれる存在であることなど、少しも気にかけてはいません。

 そして、そういう人に限って、神が自分を裁いているのではないかと感じるような出来事に遭遇すると、神の裁きの基準は重すぎると不平を漏らしたりします。

 しかし、イエス・キリストはおっしゃいます。

 「自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」

 神は決して不公平な秤で、裁きを実行しているわけではありません。自分が人を裁いたその基準で裁かれるのですから、不平や文句もないはずです。

 神が同じ基準で私をお裁きになる、という厳粛さを心に留めておくべきこと、そのことをイエス・キリストは私たちに問いかけておられるのです。

 しかし、その厳粛な事実を忘れてしまう、一つの要因は、自分自身の罪には気づきにくいという人間の弱さです。ともすれば自分は正しい、とする思い上がりです。

 イエス・キリストはこの人間の弱さをユーモアにあふれた言葉で表現します。

 「なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。」

 イエス・キリストの父親であるヨセフは大工であったことが知られています(マタイ13:55)。そして、イエス・キリストご自身も大工であったと言われています(マルコ6:3)。丸太やおが屑は、大工仕事では身近な素材です。さすがに丸太が目に入って気が付かないということは現実にはありません。しかし罪に関していえば、そんなおかしなことが往々にしてありえます。自分の大きな罪には気が付かないのに、他人の些細な罪には敏感に反応してしまいます。逆にそうであるからこそ、神の立場に立って人を裁いても、何も感じることがないのです。いえ、それどころか、自分こそが正義を実現する仇しい人間なのだと自負するくらいです。

 このイエス・キリストの教えを耳にして、私たちはどう生きるべきなのでしょうか。聖書の中に記された、他の教えにも目をとめてみましょう。

 パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、こう書いています。

 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります(ローマ12:19)。

 正義の侵害に対する裁きは、しばしば報復という形で現れます。しかし、そのような人間の怒りや裁きや報復は、必ずしも平和な関係を築き上げていくとは限りません。なぜなら、人間の正義感ほどその人が置かれた関係によって左右され、その行う裁きにもバイアスがかかることがあるからです。神の正しい裁きに委ねる忍耐と寛容は何よりも大切です。

 しかし、それはただ黙って我慢することが大切だというのではありません。特に同じ主を信じる者たちの共同の中では、もう一歩進んだ関係が求められています。

 パウロはガラテヤの信徒への手紙の中でこう述べています。

 「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、”霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」(ガラテヤ6:1-2)

 罪に対しては裁きを優先させるのではなく、柔和な心で対処することを心がけるということです。神は裁き合うことを望んでおられるのではありません。人が正しい道に立ち帰ることを望んでおられるのです。キリストが私たちを愛し、赦し、正してくださったように、怒りからではなく、愛の心から互いの重荷を負いあうことです。

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