聖書を開こう 2024年6月27日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  神の国を第一に(マタイ6:25-34)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 今から5年以上前の話になりますが、スマートフォンに依存した生活時間の長い若者ほど幸福感が薄く、反対にスマートフォンに依存しない生活時間が長い若者ほど幸福感を感じているというアメリカの統計結果を目にしたことがあります。これはアメリカだけの現象ではなく、世界的にそうだとわたしは思います。

 かつて「幸福の国」と呼ばれてきたブータンでは、インターネットが解放され、若者たちがネットで世界の情勢を知るようになって、もはや幸福をそれほど感じなくなったという話を聞いたことがあります。

 ネットには刺激的な話がたくさん転がっています。幸せそうに見える人たちが、その生活を写真や動画で公開しています。今まで自分の生活に満足していた人たちが、自分の生活を色褪せたものと感じ始め、そうかといって、ネットで垣間見る幸せな世界を自分の生活に実現できるほどの力などないことに、なんとなく無力感を感じているのかもしれません。

 真偽がはっきりしない情報に踊らされ、あおられ、便利なはずの道具によって、不安な気持ちさえ植え付けられています。

 もっとも人生に対する思い煩いや不安は今に始まったことではありません。些細なことで、一気に幸福感や充足感を失ってしまう人間の弱さを思います。

 イエス・キリストは、そのような弱さを持つ人間に、何を大切にして生きることが重要であるかを教えています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 6章25節〜34節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 冒頭に出てくる「何を食べようか何を飲もうか。何を着ようか」という悩みは、選択枝がたくさんありすぎて、どれを選んだらよいのかという悩みではありません。わずかしかないからこその思い悩みです。何を飲んだり食べたりして、この命を繋いでいこうか、それくらい身に迫る悩みです。

 しかし、食べるものがふんだんにあって、飲み物にも事欠かない、着る物だってそこそこあっても、生きることへの不安を払しょくすることができないで、結局は思い煩っいるのが人間です。ものが有り余っていても、足りなくても、不思議と同じことで悩んだり思い煩ったりするのは、いかにも人間らしいと思います。

 この生きることでの思い悩みや不安から解放されない人間に向かって、イエス・キリストは「空の鳥をよく見なさい」「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」と勧めています。

 そうおっしゃるのは、鳥や花の生きざまの中に、神の配慮の現れを見て取るようにとの勧めです。鳥が思い煩うか、花が思い悩むかということは別にして、神の配慮の中で、鳥も花ものびのびと生きているその姿に目を止め、考えてみよ、というのがイエス・キリストの勧めです。

 鳥や花に対してさえ、そのような配慮に満ちた扱いをしてくださる天の父なる神が、花や鳥よりもはるかに勝る人間を、ぞんざいに扱うはずがないと力説なさいます。

 結局のところ、人間の不安や思い煩いの根源には、神に対する人間の側の信頼がどれほど小さなものであるのか、ということです。

 マタイによる福音書の六章前半で、イエス・キリストは「施し」「祈り」「断食」について教えてきましたが、それらの教えに共通していたことは、隠れたところにおられる天の父なる神をこそ意識した生き方でした。

 特に祈りについては、祈る前からわたしたちの必要をご存じである神に信頼して祈る祈りでした。

 そのような生き方は、天に富を積む生き方、天に心を置く生き方です。曇りのない目で神を見上げ、配慮に満ちた神の恵みを見出だして、神と共に生きる生き方です。

 けれども、実際のわたしたちは、地上の富と神との間で心が引き裂かれ、わたしたちの必要を誰よりもご存じであられる神から心が離れて、地上のことにだけ心が行ってしまいがちです。

 そこにこそ大きな問題があります。

 イエス・キリストはおっしゃいます。

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」

 何を第一に優先させるのか、そこが問題です。食べるものも、飲むものも、着るものも、不必要なものではありません。大事ではないともおっしゃいません。しかし、優先順位を間違えて。それらを第一に求め、それによって命が支えられ、幸せにたどり着けると思い込んでしまうところに問題があるのです。

 イエス・キリストはここに至るまでも、神の御前で生きることの大切さを強調してきました。ここでもまた、神を意識し、神の国と神の義を第一に求めて生きることの大切さを教えておられます。

 誰よりもわたしたちの必要をご存じであられる神であるからこそ、食べるもの、飲むもの、着るものも、みな加えてお与えくださるのです。

 最後にイエス・キリストはおっしゃいます。

 「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 神ご自身がわたしたちを心に留めてくださっているのですから、これ以上に思い煩うことに心を占領させてはなりません。きょうの苦労をご存じである神が、明日も共にいてくださるのです。

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