メッセージ: 天に宝を(マタイ6:19-24)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
今までマタイによる福音書の6章の前半から、「施し」「祈り」「断食」についてのイエス・キリストの教えを取り上げてきました。きょう取り上げる箇所には三つの教えが一見ばらばらにちりばめられているように感じられます。しかも、6章の前半で学んだ「施し」「祈り」「断食」についての教えとどう結びつくのか、いまひとつピンとこないかもしれません。
それらの教えで一貫して強調されてきたことは、人に見られようとする生き方に対して、隠れたところにおいでになる天の父なる神の御前で生きる生き方でした。言い換えれば、地上のことについていつも心をとらわれる生き方ではなく、天上の世界を意識し、天におられる父なる神を第一とし、この方のいらっしゃるところに自分の心を置く生き方ということができます。
そういう観点からきょう取り上げようとしている個所を読み解いていくと、見えてくるものがあります。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 6章19節〜24節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
私たちがこの世に生きるとき、何を大切にして生きるのか、これはとても大事な問題です。それによって、その人の生きざまがまるで違ってくるからです。
人間が生きていく上で必要なものは何か、と考えるとき、食べるものや着るもの、住む場所などが真っ先に頭に浮かんでくるのは、ある意味で当たり前のことかもしれません。
創世記の最初に記された天地創造の記事も、そうした必要なものを備えた上で、神は人間をお造りになったと語っています。ですから、まるでそのようなものを不必要なものであるかのように考えるとすれば、それは極端な考えと言えるでしょう。
けれども、それらは人の暮らしに欠かすことができないものであっても、それ自体が私たちの生活の目標ではないはずです。食べるために、着るために、住むために生きているのだとすれば、それこそ人生はむなしいとさえ感じられてきます。
イエス・キリストは「地上に富を積んではならない」とおっしゃいます。どこにも富を積んではならないとはおっしゃっていません。「地上」にではなく、富は「天」に積みなさいとおっしゃっています。
しかし、同じ「富」という言葉を使いながらも、地上で積むことができる「富」をそのまま場所を変えて天に積むことができるはずもありません。天に積むことができる「富」と、地上で積むことができる富とはおのずと違っています。
では、イエス・キリストがおっしゃりたいことは、功徳を積むようにということでしょうか。そうとも思えません。そもそも罪人である人間が、神の義を満足させるような善い行いなど果たせるはずもないからです。積めるはずのないものを積んだと思い込んでいるだけなら、それもまたむなしいことです。
では、天に積むことができる富とはなんでしょう。その答えをキリストは明確に語りません。しかし、こうおっしゃっています。
「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
この言葉を手がかりに考えるとすれば、心がどこにあるのか、そのことこそが、イエス・キリストが問題としておられることです。富が何であれ、その富のために心がどこに向かうのか、それこそが問題なのです。
「富」という言葉を「自分がもっとも大切に思うもの」という言葉で置き換えるなら、その大切なものに心を向かわせるときに、その思いが神へとおのずと向かうのか、それとも神から離れて、この地上のことへと向かうのか、そこをイエス・キリストは問題とされておられるのです。
そういう観点から考えると、イエス・キリストがおっしゃるもう一つの言葉に通じてきます。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。」
自分がもっとも大切に思うものが、神の思いとは全く異なるところにありながら、どうして神を愛し、神に仕えることなどできるでしょうか。
では、そのことと「体のともし火は目である」という教えは、どう結びつくのでしょうか。
イエス・キリストがここで語っておられる「目」とは文字通りの肉眼のことではありません。神の世界を見る心の目と言い換えて良いでしょう。
エフェソの信徒への手紙の中で、パウロはまことの神を知らない人々のことをこう語っています。
「彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています」(エフェソ4:17-18)。
暗くなった知性、暗くなった心の目では正しく神を見ることができません。ですから、パウロは同じ手紙の中でこう記しています。
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、…心の目を開いてくださるように」(エフェ1:17-18)
何を大切にして生きるのか、それを正しく知るためには、心の目がいつも明瞭でなければなりません。しかし、現実の私たちについて、イエス・キリストはこうもおっしゃっておられます。
「今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」(ヨハネ9:41)
心の目が曇っているにもかかわらず、「見える」と言い張るところに私たちの罪の大きさがあるのです。しかし、そのことに気が付き、私たちの心が神に向かっていないことを悟るなら、そこからまさに天に心を置く生活の一歩が始まるのです。