聖書を開こう 2024年6月13日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  断食についての教え(マタイ6:16-18)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「断食」という言葉は知っていても、実際に断食を実行したことがある、という人は意外と少ないかもしれません。私の周りでもあまり耳にしたことがありません。

 もっとも、健康上の理由で絶食をしたことがあるという経験を持った人なら、この番組を聞いている方の中にも少なからずいるように思います。最近ではデトックス効果を狙って、わざわざ断食をするという人もいるくらいです。

 しかし、宗教的な断食というと、何かよほどの修行のために行うものというイメージが強いように思います。

 イエス・キリストの時代、どのくらいの頻度で一般民衆が断食を行っていたのかはわかりませんが、少なくともファリサイ派の人たちは週に二度断食を実行していたようです(ルカ18:12)。

 きょうはこの断食について、イエス・キリストの教えから学びたいと思います。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 6章16節〜18節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

 今まで、敬虔な宗教生活に欠くことができない「施し」と「祈り」について、イエス・キリストの教えを取り上げてきました。イエス・キリストがそれらの宗教的な行いについて取り上げるときに、「偽善者」という言葉をキーワードに用いて、それらの行いが人に見せるための行いとなってはならないことを強調してきました。

 「断食」について取り上げるときにも、イエス・キリストは、偽善者のように人に見てもらおうとする断食を警戒されました。いかにも断食をしているような苦しい顔つきで断食をしてはならないとおっしゃるのです。

 むしろ断食するときには、頭に油をつけ、顔を洗い、人にはそれと気が付かれないように断食することが勧められています。

 そうまでするのは、人に気づかれないため、というよりは、むしろ、隠れたところにおられる神を意識する、という点に強調点があります。「施し」や「祈り」についての教えもそうでしたが、隠れたところにおいでになる神の御前に自分が生きていることをどれだけ意識しているか、そこが大切なポイントです。

 そもそも「断食」は何のために行われているのでしょうか。旧約聖書の中には、断食についての記述はあちこちに見られますが、守るべき断食についての定めはただ一個所にだけしかありません。

 それは贖罪日に行わる断食です。贖罪日の規定を定めたレビ記にはこう記されています。

 「以下は、あなたたちの守るべき不変の定めである。第7の月の10日にはあなたたちは苦行をする。何の仕事もしてはならない。土地に生まれた者も、あなたたちのもとに寄留している者も同様である。なぜなら、この日にあなたたちを清めるために贖いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪責が主の御前に清められるからである。これは、あなたたちにとって最も厳かな安息日である。あなたたちは苦行をする。これは不変の定めである。」(レビ記16:29-31)

 ここには「断食」という言葉そのものは出てきませんが「苦行をする」ことが、「断食」と同じ意味に考えられています。後のイザヤ書には「わたしの選ぶ断食 苦行の日」という表現がありますので、「苦行の日」と「断食」はほとんど結びついた表現と考えることができます。

 では、なぜ贖罪の日に断食が命じられているのでしょうか。その理由は明らかにされてはいませんが、この日、神の御前で自分の罪を深く思うということと関係しているのではないかと考えられます。神の御前で自分の罪を深く思いめぐらせるとき、食事など喉を通らなくなるのが道理です。言い換えれば、食事も喉を通らなくなるほどに、各自が神の御前で自分の罪の重さと向き合うことが贖罪の日に命じられているということでしょう。

 それが断食の本来の意味であるとすれば、そこには人目を気にする余地など寸分もないはずです。イエス・キリストが求めておられる断食もそれと同じです。人目を意識してわざわざ行う断食ではなく、神の御前に真摯に自分と向き合う時に、食することさえも出来なくなるような、そういう時間を大切にするようにとイエス・キリストは私たちに求めておられるのです。

 ところで、イエス・キリストと断食について調べてみると、当然、イエス・キリストご自身、断食を実行された方でした。すでに学んだ個所ですが、荒れ野でサタンからの誘惑をお受けになったとき、それに先立ってキリストは40日間、昼も夜も断食をされたことが聖書には記されています(マタイ4:2)。

 もちろん、この場合の断食は、罪と向き合うための時間というよりは、祈りを深め、メシアとしてのご自分の使命を深く思いめぐらせる時間であったことでしょう。少なくとも、この断食は決して人を意識した行動ではありませんでした。

 しかし、その反面で、イエス・キリストは弟子たちに断食することを強く求めてはおられなかったようです。聖書の中にはこんなエピソードが記されています。

 洗礼者ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々がしばしば断食しているのに対して、イエス・キリストの弟子たちが飲んだり食べしているのを見て、人々はイエス・キリストに向かってこう尋ねました。

 「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」(マルコ2:18)

 この質問に対してキリストは、「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」と答えておられます(マルコ2:19)。ご自分を花婿に例え、弟子たちを婚礼の客になぞらえて、この特別な時に断食をしないのは当然だと、弟子たちを弁護されました。

 このエピソードからも分かる通り、イエス・キリストは断食について自由な立場でした。しかし、同時に断食を行うときには、神に心をまっすぐ向けるようにと、もっとも厳格な断食のあり方を求めておられるお方でした。

 この自由さと厳格さが両立しているときに、私たちは本当の意味で施しも、祈りも、断食も正し行うことができるのです。

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