聖書を開こう 2024年5月30日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  祈りについての教え(マタイ6:5-8)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 私が利用する近所の駅前にはお稲荷さんがあります。改札を通る時に、その祠の前で祈願する人の姿をしばしば見かけます。お参りする人は特にお年寄りが多いと言わけではありません。若い人の姿もよく見かけます。

 その姿を見ていて思うのは、宗教心というのは、どんなに時代が変わっても、人の心から完全になくなってしまうものではないのだなぁ、ということです。

 そういう意味で、今日取り上げる「祈り」についてのイエス・キリストの教えは、祈る対象が違うということを除けば、キリスト教を知らない人にとっても全くとっかかりのない話題ではないように思います。一度でも祈ったことのある人にとっては、考えさせられる話題であるはずです。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 6章5節〜8節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」

 前回の学びでも触れましたが、マタイによる福音書の6章の前半には、ユダヤ人の宗教生活にとって大切だとされていた三つの事柄が取り上げられています。それは「施し」と「祈り」と「断食」の三つです。きょうはそのうちの「祈り」について取り上げます。

 他の二つと同じように、イエス・キリストは祈りについて取り上げるときにも、それが、人からの賞賛を得るためになされているのか、それとも神に心が向かっているのか、そのことを第一に問題とされています。

 人から賞賛を期待して祈るということは、考えにくいことかもしれません。しかし、祈りについて考えるときに、避けて通れない問題がユダヤ人たちの習慣にはありました。それは、祈りの時間に関する習慣でした。祈りの時間になれば、ユダヤの人々はそれぞれに祈りの時を大切に思い、どこにいても祈りました。

 もし、祈りの時間に敢えて祈らないとすれば、それは不信仰と思われてしまいます。逆に、その時に特別な熱心さを示せば、人々から信仰深い模範的な人だと思われます。

 どちらにしても、そのような思いが祈りの生活の中に入り込んできたときに、心は、その分だけ神から離れてしまいます。祈りは神と向き合う時ですから、そこに余計なものが入り込むことをイエス・キリストは警戒なさっておられるのです。

 そこで、「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と勧めておられます。

 もちろん、ここで大切なことは、戸が閉まるような個室にこもることではありません。天の父なる神に心を向けることが大切なことです。実際、当時のユダヤ人の家には、誰もが閉じこもれるような個室がいくつもあったわけではありません。家の中にいても、外にいても、神と向き合うことができるのなら、そここそが奥まった自分の部屋と言えるでしょう。

 祈りについて、イエス・キリストはもう一つ大切なことを教えています。それは「異邦人のようであってはならない」ということです。その場合の異邦人の祈りの特徴は、「くどくどと祈る」ことでした。その長い祈りの背後にあるのは、言葉数が多ければ祈りは聞かれるという確信です。

 これは、祈りについての根本的な問題を投げかけているように思います。

 祈るとき、自分のうちに何も願いがないということは、どの宗教に祈りにもありえないことです。聞き上げられたい願いがあるからこそ、人は祈ります。そして、その願いは、少なくとも、自分にとっては必要な願いであり、それが叶うことが自分や自分の周りの人たちに幸福をもたらすような願いです。

 では、そのような願いを神は祈る前からご存じなのでしょうか。ご存じないとすれば、神にその必要を知らせなければなりません。しかも、私たちのことを知らない神だとすれば、一から説明をしなければ、願いの意図も伝わりません。異邦人たちの祈りが長くなる理由はここにあります。

 あるいは、神が私たちの必要をご存じであるとしても、一生懸命願わない者には何も与えない神だとしたら、どうでしょう。これもまた祈りが長引いてしまう理由になります。

 このように異邦人たちが考える神々に対して、主イエス・キリストは、まことの神は「願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」とおっしゃいます。もしそうであるなら、ではなぜ祈るのでしょうか。神は願いを知っていても熱心に祈る者だけに耳を傾けるお方だからでしょうか。そうではありません。

 祈りは、私たちが考える自分の必要を神に説得するために奉げられるものではないからです。そうではなく神がご存じである私たちの必要に、私たち自身が気付かされ、私たちに対する神の御心を知って生きるために奉げるものだからです。

 例えば、子どもは自分の欲しいものを親にねだります。その欲しいものリストは、子どもに本当には必要でないものや、かえって害を与えるものも含まれています。あるいは、今は必要でないけれども、もう少し大きくなってから必要になるものもあります。子どもにはその判断ができなくても、親との交渉の中で何が自分にとってほんとうに必要なのかを学んでいくものです。祈りもそれに似ています。

 パウロはその手紙の中で自分に与えられたトゲについて、主に三度祈ったと語っています(2コリント12:1以下)。もちろんその場合の三度というのは文字通り三回だけという意味ではないでしょう。この祈りを通してパウロが学んだことは、弱さの中で神の力は十分に発揮され、今自分に与えられている恵みは十分であるということでした。

 このような気づきのためにこそ祈りは大切なのです。それは神を説得するための祈りではなく、私たちが今与えられている恵みに気が付き、その恵みを通して大きな働きをしてくださる神にますます信頼を置くために祈りは必要なのです。

 このような祈りを通して、私たちの思いとは異なる神の御心に近づくものとされていくのです。

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