ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
もう何年も前になりますが、アメリカンドリームを夢見てアメリカに来たという青年に出会ったことがあります。しかし、その青年の夢は実現するどころか、ホームレスになって公園暮らしをするまでに落ちぶれてしまったというのです。
しかし、そんな彼を力づけたのは街の人たちの親切でした。何かしらその日の暮らしに事欠かないぐらいの食べ物を恵んでくれる人がいたというのです。そういうところにアメリカのキリスト教精神は根づいているのかと感じたことを語ってくれました。
後にその貧困生活から脱却して、小さいながらも会社を起こすことができたのも、その時受けた親切が自分を励ましてくれたのだそうです。
文化の中に施しの精神が根づいている国は、他にもたくさんあると思いますが、そうした精神を幼い時から教えられているのと、そうでないのとでは、その国の豊かさが違うように思います。
イエス・キリストの時代のユダヤ人たちも、施しの文化の中で育ってきました。
申命記には寄留者、孤児、寡婦に施すことが主の戒めとして記されています(申命記26:12-13。申命記15:7, レビ記19:9-10, 箴言3:27参照)。これらの聖書の教えはイエス・キリストの時代までにユダヤ教の学者たちによって深められ、施しはあらゆる宗教的義務のうちでもっとも重要であると教えられていました(ババ・バトラ10a)。
ユダヤ教の教えをまとめたタルムードの中には、施しに関するたくさんの議論が記されています。例えば、神が貧しい人を愛しておられるのであれば、なぜ神ご自身が貧しい人たちを養われないのか、という疑問に対して、ラビ・アキバは答えてこう言いました。それは、神が我々に施しをする機会を与えておられ、その善行によって地獄の裁きから我々を救うためだ、と。
そうした背景をもつユダヤ人であるからこそ、施しや善行の実践に関して、イエス・キリストは厳しい目を持っておられました。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 6章1節〜4節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
マタイによる福音書の6章には、ユダヤ人たちによって重んじられていた3つの宗教的な行いについて、イエス・キリストの教えが記されています。それは、「施し」と「祈り」と「断食」についてです。その3つについて取り上げるときに、共通して指摘しておられることは、人に見てもらおうとする「偽善」が持つ危険性についてです。「施し」においても、「祈り」においても、また、「断食」においても人目を意識して、それらを行うことは、ありがちなことです。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」