聖書を開こう 2024年5月23日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  施しについての教え(マタイ6:1-4)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 もう何年も前になりますが、アメリカンドリームを夢見てアメリカに来たという青年に出会ったことがあります。しかし、その青年の夢は実現するどころか、ホームレスになって公園暮らしをするまでに落ちぶれてしまったというのです。

 しかし、そんな彼を力づけたのは街の人たちの親切でした。何かしらその日の暮らしに事欠かないぐらいの食べ物を恵んでくれる人がいたというのです。そういうところにアメリカのキリスト教精神は根づいているのかと感じたことを語ってくれました。

 後にその貧困生活から脱却して、小さいながらも会社を起こすことができたのも、その時受けた親切が自分を励ましてくれたのだそうです。

 文化の中に施しの精神が根づいている国は、他にもたくさんあると思いますが、そうした精神を幼い時から教えられているのと、そうでないのとでは、その国の豊かさが違うように思います。

 イエス・キリストの時代のユダヤ人たちも、施しの文化の中で育ってきました。

 申命記には寄留者、孤児、寡婦に施すことが主の戒めとして記されています(申命記26:12-13。申命記15:7, レビ記19:9-10, 箴言3:27参照)。これらの聖書の教えはイエス・キリストの時代までにユダヤ教の学者たちによって深められ、施しはあらゆる宗教的義務のうちでもっとも重要であると教えられていました(ババ・バトラ10a)。

 ユダヤ教の教えをまとめたタルムードの中には、施しに関するたくさんの議論が記されています。例えば、神が貧しい人を愛しておられるのであれば、なぜ神ご自身が貧しい人たちを養われないのか、という疑問に対して、ラビ・アキバは答えてこう言いました。それは、神が我々に施しをする機会を与えておられ、その善行によって地獄の裁きから我々を救うためだ、と。

 そうした背景をもつユダヤ人であるからこそ、施しや善行の実践に関して、イエス・キリストは厳しい目を持っておられました。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 6章1節〜4節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

 マタイによる福音書の6章には、ユダヤ人たちによって重んじられていた3つの宗教的な行いについて、イエス・キリストの教えが記されています。それは、「施し」と「祈り」と「断食」についてです。その3つについて取り上げるときに、共通して指摘しておられることは、人に見てもらおうとする「偽善」が持つ危険性についてです。「施し」においても、「祈り」においても、また、「断食」においても人目を意識して、それらを行うことは、ありがちなことです。

 もちろん、人目を意識しないということが大切なことは確かですが、イエス・キリストが指摘しておられることは、人の注目を浴びるために意図的にそれを行っているとしか思えないような態度です。それでは何のための施しや祈りや断食であるのか、その意義が見失われてしまいます。

 イエス・キリストがそのような人を過度に意識した行いを非難するときに使っている言葉は「偽善者」という言葉です。

 偽善者という言葉のもともとの意味は、仮面をかぶって役を演じる役者を指す言葉でした。役者というのは、その役になりきって役を演じますが、あくまでも演技にすぎません。たとえ王様の役を演じたとしても、王様そのものになれるわけではありませんし、演技の目的がそこにあるわけでもありません。いかに上手に役を演じて観客の拍手喝采を受けるかが、役者の醍醐味です。

 その「役者」という言葉から派生した言葉「偽善者」の本質もそれに似ています。意識しているのは、どう見られるかという観客の目です。

 そこでイエス・キリストはこうおっしゃいます。

 「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。」

 実際に施しをするときにラッパを吹き鳴らす人がいたかどうかは文献的な証拠があるわけではありません。おそらく、自分の善行を自分で言い広めることを比喩的に表現したものでしょう。自分のしたことを少しでも大げさに言ってしまう誘惑は人間の弱さを物語っています。

 施しの目的が、施される人たちの福祉の向上にあるのだとすれば、それに寄与できたことこそ大切な点であり、その行為を言い広める必要などどこにもありません。

 それに施しに使われるお金にしろ、労力にしろ、時間にしろ、それらはもともとは神から与えられた恵みですから、それらを用いたからと言って、手柄になるようなことではありません。もちろん、神から与えられたものを正しく管理して用いるという点では賞賛に値するかもしれません。しかし、それを誉めてくださるのは神ご自身であって、人に期待すべきことではありません。

 そういう意味で、慈善の業は隣人へ愛と神への愛とかからだけ出てくるものです。それ以外の動機が頭をもたげるときに、その慈善が偽善へと変化してしまうのです。

 イエス・キリストは「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」とおっしゃっています。施しを行う際の匿名性や謙虚さについて、ユダヤ教のラビたちが教えてこなかったわけではありません。

 しかし、そうであればこそ、偽善に陥ってしまった施しの実践を、主イエス・キリストは嘆いておられるのです。

 ところで、自分は偽善者にはなりたくないので、慈善活動は一切しないと思う人もいるかもしれません。あるいは他人の慈善活動を偽善だと非難して、自分では何一つ施さない人がいます。しかし、神への愛も隣人への愛も示そうともせずに、自分を正しいとするなら、それもまた偽善的な生き方ということになるでしょう。

 大切なことは、神からいただいたものを用いて、心から隣人に仕える姿勢です。その最上の模範をイエス・キリストは私たちに示してくださいました。

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