メッセージ: 隣人愛が求めるもの(マタイ5:43-48)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
どんな社会であれ、人間が築く社会で大切なことは、信頼関係だと思います。それが家庭であれ、職場であれ国家であれ、信頼関係がなくなれば、疑心暗鬼になってしまいます。
疑心暗鬼が積み重なれば、相手を油断のならない敵と看做し始めます。そうなると、相手が具体的に何かをしたというのでもないのに、これからするかもしれない災いに備えて、こちらもそれに対抗できる備えをし始めます。
一番わかりやすい例は、国家間の軍備の拡大がそうです。しかし、そこまで話を大きくしなくても、私たちが生きる狭い社会でも、疑心暗鬼が支配する社会では、仮想の敵を増やして、かえって不安な気持ちを増大させています。その不安な気持ちを一掃するために、敵に対してするどんな報復も、常に自分は正しいと考えて、心の平安を保とうとします。こうしてますます分断が進んでいきます。
仲間を愛し、敵対する者を憎め、というのはもっともらしい教えのように聞こえます。そうでなければ、自分の身の安全を保てないと考えてしまうからです。
では、イエス・キリストはこのような考えに対して、どのように教えておられるのでしょうか。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 5章43節〜48節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という教えは聖書自身が教えている教えです(レビ19:18)。イエス・キリストご自身も、最も大切な掟の一つとして、隣人愛について教えをされています。
では、「敵を憎め」という考えはどこから出てきたのでしょうか。それは当時の律法学者たちによる、律法の解釈と実践の仕方に大きく関わっていると思われます。
例えば十戒の中で「安息日には何の業をもしてはならない」と定められています。律法学者たちは「何の業」に何が含まれ、何が含まれないのかを議論しました。安息日にどれくらいの重さものを持ち運んだら働いたことになるのか、安息日にどれくらいの距離を歩いたら仕事をしたことになるのか、事細かく解釈を定め、実践することを命じていました。
同じように「隣人を愛する」というときに問題となるのは「隣人とは誰か」という問いです。
正にルカによる福音書の10章に記された「良きサマリヤ人のたとえ話」のきっかけを作った律法の専門家の問いはそれでした。「では、わたしの隣人とは誰ですか」。
その問いが目指すところは、隣人の定義を明確にすることで、この掟を実践しやすくすることでした。しかし、実際には隣人の範囲を狭めるだけで、結局は罪人や異教徒を愛の対象から排除する方向へと向かってしまいました。そればかりか、罪人も異教徒もまことの神を畏れ敬わず、神に敵対するものと定め、このような者たちを憎むことが神の御心と理解したのでしょう。
確かに神は罪を是認されるようなお方ではありません。しかし、その一方で、神は善人にも悪人にも同じように太陽を昇らせ、雨を降らせてくださる慈愛に満ちたお方です。イエス・キリストは神のそのような愛の側面に人々の心を向けさせています。
ちなみに「良きサマリヤ人のたとえ話」の中で、イエス・キリストは、律法の専門家の問い、「わたしの隣人とは誰ですか」という問いに対して、「誰が強盗に襲われた人の隣人となったのか」と問いの立て方を問い直しておられます。
誰がわたしの隣人なのかを探すのではなく、わたしは誰の隣人であろうとしているのか、そこから隣人愛が始まるからです。
きょう取り上げたマタイによる福音書の個所では、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われています。
わたしに向き合っている人を「敵」と看做すこと、自分を迫害する人間と看做すこと、そこにそもそもの大きな問題が潜んでいます。「自分の敵だ」と思っているその人を、「自分を迫害する者だ」としか考えていないその人のこととを、イエス・キリストは愛するように、また祈るようにと勧めています。
そんなことはできないと私たちはすぐに思ってしまいます。しかし、そう思い続ける限り、何の前進もありません。
愛するとは、相手に関心を抱くことだとしばしば言われています。相手のために祈るということも、この関心と深くかかわっています。もちろん、その関心はネガティブな関心ではありません。興味本位の関心でもありません。心からその人を知ろうとする関心です。
人はしばしば人を分け隔てて、一方にだけ関心を示し、他方には無関心な態度を取りがちです。その無関心がやがてはネガティブな関心に変わって、自分にとって敵対的な情報だけを増幅させてしまいます。そこからは何の良いものも生まれてきません。
イエス・キリストは、「敵だ」と一旦は分け隔ててしまったその人にもう一度関心を注ぎ、その人を正しく知るようにと促しておられるのです。
神の寛大さの中に生かされている私たちであるからこそ、その神の愛にまず自分が生かされていることを知ることが大切です。罪人である私たちに、まず関心を示し、分け隔てることなく恵みを注いでいてくださっている、その慈しみに先ずは気付くことが大切なのです。その神の愛を実感できるときに、わたしもまた、敵だと私が思っているその人に対して、関心を抱き、愛する心へと変えられていくのです。