メッセージ: 復讐の連鎖からの解放(マタイ5:39-42)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
言い争う二人の仲裁に入るとき、どちらにも言い分があり、またどちらかが、あるいは双方に誤解があることもあります。また、どちらかが過剰な反応を示したために、収拾がつかないほどの応酬の連鎖に発展してしまうこともあります。
そういうとき、一刻も早く赦しと和解へと双方の心が向かえば、問題も早く解決するのですが、それがなかなかできないのが人間です。自分の側の正義を主張して譲らなければ、いつまでたっても平行線です。
旧約聖書の律法やハムラビ法典の掟にはLex talionisとラテン語で呼ばれている原則があります。日本語では「同害復讐法」と翻訳されています。具体的には「目には目を歯には歯を」という条文です。目に損害を受けたら、目以上の損害を相手に報復することは許されないという原則です。受けた被害に対して、同程度の害を相手に加えることでバランスを保とうとする考えです。
もちろん、近代国家では、このバランスを同害復讐以外の方法でどのように保つのか、様々な法的な整備がなされてきました。加害者に対しては、同じ損害をそのまま与えるのではなく、一定期間身体の自由を拘束したり、労働を課したり、罰金を課したりなどの刑罰を与えます。それと同時に、受けた損害を金銭的な価値に換算して賠償を命じたりなどの方策がとられています。
きょうこれから取り上げようとしているイエス・キリストの教えは、法的な解決の話ではありません。復讐心をエスカレートさせてしまう私たちの心を問題とした話です。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 5章38節〜42節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
先ほども冒頭で取り上げましたが、旧約聖書の律法には「目には目、歯には歯」という原則がありました。この掟の条文には前後があってもう少し細かく規定されています。出エジプト記でも、レビ記でも、目や歯に限った掟ではありません。
「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない」(出エジプト21:23-25)
「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。家畜を打ち殺す者は、それを償うことができるが、人を打ち殺す者は死刑に処せられる」(レビ記24:19-21)
これらの原則は、度を過ぎた復讐心を抑えるための掟であると解釈されています。確かに人間は、ちょっと体がぶつかっただけでも、殴り合いのけんかになったり、果ては相手を殴り殺してしまうということにも発展したりします。そうしたエスカレートする報復心を止める意味では大いに役立ったに違いありません。
同じ掟を定めた申命記の言葉は、度を過ぎた復讐心を抑えるための掟以上の含みが感じられます。そこにはこう記されています。
「彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない。ほかの者たちは聞いて恐れを抱き、このような悪事をあなたの中で二度と繰り返すことはないであろう。あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない」(申命記19:19-21)
申命記の文脈の中では、この掟が必ず実行されなければならないことが強調され、誰かを傷つけることを思いとどまらせる効果が期待されています。
そうした背景に対して、イエス・キリストはこうおっしゃいました。
「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」
おそらく、この言葉を聞いて誰もが思うことは、それでは一体正義はどうなるのか、これでは悪人のやりたい放題の社会になってしまうのではないか、と言うことだと思います。
確かにその通りだと思います。自分の被害を救済するというためばかりでなく、同じようなことが繰り返されないためにも、声を上げることの大切さを強調することが重要なことは誰もが知っています。
しかし、イエス・キリストがここで問題とされておられることは、どうしたら社会正義を実現することができるのかという問題ではありません。
一人の人間として、復讐心を克服し、報復の連鎖を断ち切るために何ができるのか、ということです。
それは単なる泣き寝入りの勧めではありません。泣き寝入りというのは、自分の意に反して抵抗できない状態です。どうすることも出来なくて、ただ泣くしかない状態のことです。
イエス・キリストは、何もできないから抵抗するなとおっしゃっているわけではありません。少なくとも、法に訴えて同等の報復を加えることはできることが前提です。しかし、ただの無抵抗主義の勧めでもありません。
右の頬を打たれたら、左の頬も差し出すのですから、無抵抗どころではありません。むしろ積極的な行動で相手の先を行くほどの対応です。
下着を取ろうとする者には、上着も与え、1キロ行かせようとする者には倍の距離を行くほどの積極的な行動です。
しかも、強いられて意に反してそうするのではなく、進んでそうすることで、復讐心を克服してしまおうという逆転の発想です。
イエス・キリストは「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」とおっしゃいます。奪い取られたのではなく、必要なものを求められて与えたのだと思えば、腹をたてる必要もなくなります。必要があって自分に借りようとしているのだと思えば、心を狭くして不快に思う必要もなくなります。
すべてのことがこうした発想転換でうまくいくとは限らないかもしれません。しかし、少なくともそう思って行動をとることで、心の平安を保ち、隣人との無用な対立をいくらでも避けることをできるのではないでしょうか。
いえ、人間にはそれはただの理想でしかないかもしれません。しかし、神ご自身は、この世界も、そしてご自身の御子をも人の手に惜しまず渡して、罪ある私たちとの和解を求めておられるのです。