メッセージ: 誠実な生き方(マタイ5:33-37)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教会の結婚式に参列した経験がない人でも、映画やドラマでキリスト教風の結婚式のシーンを見たことがある人は多いと思います。そのシーンの見せ場の一つは、神の御前に結婚を誓い合う新郎新婦の姿です。
その他にも誓いの場面と言えば、日常生活の中でよく目にするのは、高校野球の開幕式の時に行われる選手宣誓や裁判もののドラマで証人が宣誓を求められる場面、あるいは入学や入社の際に誓約書を求められたという経験のある人もいるかもしれません。
そう考えると「誓い」や「誓約」というのは案外身近なことといういことができるかもしれません。
ただし、身近であるということと、身近でありふれたことなので、そんなに重たい意味はない、というのとは大違いです。たとえば、裁判の証人が、誓約するのはただの儀式だと思って、誓いの言葉とは裏腹に好き勝手なことを話し出したらどうなるでしょう。あるいは選手宣誓で誓ったことをすっかり忘れて、勝つことだけを優先させて卑劣な方法で試合を進めたらどうでしょう。
誓いにはそれほどの重みがあり、誰もが誓い通りに物事が運ぶことを期待しています。
では、この誓いについて、イエス・キリストはどんなお考えを持っておられるのでしょうか。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 5章33節〜37節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」
今お読みしましたように、イエス・キリストは誓いについて、「一切誓いを立ててはならない」とおっしゃっています。これはある意味でとても驚きです。というのは、キリスト教会の伝統では、先ほど例を挙げたように、結婚式の際に新郎新婦に誓いを求めています。その他にも、洗礼を受けるときにも多くの教派では、いくつかの項目について神と教会の前で誓いを立てることが求められています。こうした事柄は、イエス・キリストの教えを無視しているのでしょうか。
まずは、イエス・キリストの言葉の背景から理解する必要があります。
旧約聖書の中にも誓いについての教えはたくさんあります。例えば隣人から預かった銀がなくなって、犯人も見つからないとします。しかも、預かったその人が自分が犯人ではないと主張するときは、無実であることを誓うようにと求められています(出エジプト22:7)。
あるいは軽はずみな誓いに対しては、それが軽はずみな誓いであったことが分かったときに責めを負うと定められています(レビ記5:4)。
偽りの誓いについては「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である」(レビ19:12)と厳しく戒められています。
こうした定めから考えても、誓いは日常生活に身近なものであり、また、それが厳格に行われることが求められていました。
イエス・キリストの時代のラビたちは、このモーセの律法をより厳密に守るために様々な細かい規定を設けました。その具体的な例は、律法学者やファリサイ派の人々を批判したイエス・キリストの言葉に表れています。その一部を紹介しましょう。
「あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。……『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う」(マタイ23:16, 18)。
まず、これらの言葉に現れているラビたちの誓いの立て方には、「主なる神にかけて誓う」とか「神の御名名によって誓う」という言い方が出てきません。今日お読みした聖書の個所でも「天にかけて」とか「地にかけて」とか、あるいは「エルサレムにかけて」など、直接、神ご自身や神の御名によって誓うことが避けられているのが分かります。
その理由は、十戒の中に「主の名をみだりに唱えてはならない」という掟があるからです。確かに、そこまで神の御名を重んじることは素晴らしいことですが、しかし、厳粛な誓いの場面で主の御名を用いないことは、最初からその誓いが軽はずみであることを認めて、責任逃れをしているようにも聞こえます。
確かに先ほど引用したレビ記には「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない」(レビ19:12)と厳かに命じられています。しかし、主の御名を使って立ててはいけないのは偽りの誓いであって、すべての正しい誓いまでもが主の御名によって誓うことが禁じられているわけではありません。
それにもかかわらず、主の御名によって誓う以外の方法を生み出し、しかも、神殿にかけて誓うのと神殿の黄金にかけて誓うのとでは、誓いの効力にあたかも違いがあるように教えています。なぜ、区別を設けているのか、それは明らかに軽はずみな誓いによって、律法を破ることがないための安全装置だというのはすぐにわかります。何も深く考えず。神殿や祭壇にかけて誓うことは十分起こりうるでしょう。しかし、「神殿の黄金」や「祭壇の犠牲」となると、そこまで細かい指示を出せるくらい熟慮した誓いということになります。
となると、よほどの誓いでない限り、後になってそれは無効だったと言い逃れることが出来てしまいます。それは軽はずみな誓いから自分を守る都合のいいシステムということができます。言い換えれば、誓いは守れないことの方が多いという、自らの不誠実さを前提にしてしまっているということです。
イエス・キリストが「一切誓いを立ててはならない」とおっしゃるのは、こうした誓いに対する不誠実な態度が問題となっているからです。そもそも、人が自分の言葉に誠実に生きているのであれば、誓いなど立てる必要もありません。イエス・キリストが願っておられることは、正にそのことなのです。「はい」と言ったものを後から「いいえ」に変えてしまうような不誠実な生き方ではなく、神のみ前に自分の言葉通りに生きる誠実な生き方をこそ求めておられるのです。