メッセージ: 離縁についての教えをどう読むか(マタイ5:31-32)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
離婚経験者のことを「バツイチ」「バツニ」などと表現するようになってかれこれ30年近くが経ちます。それとともに離婚経験者であることは、社会的にそれほど特別なことではなくなってきたように思います。
実際、日本の離婚率は30数パーセントと言われていますから、3組に1組の割合で離婚している計算になります。この事実から考えても、身の回りに離婚経験者がいることはそれほど珍しいことではありません。
しかし、どんなにその数が増えたとしても、離婚経験者が持つ苦しみが軽減されたということではありません。離婚経験者には、悲しみ、孤独感、罪悪感、自責、自信喪失など、精神的なストレスに悩まされることが多く、時には精神的な疾患や体調不良にまで襲われることがあります。
配偶者による暴力や遺棄など離婚を正当化できる十分な理由があったとしても、それでも離婚によって受けるストレスは計り知れないようです。
そうしたことを考慮すると、離婚についての教えを教会の中で講壇から語るというのは、相当な配慮が必要になってきていると思います。おそらく、きょうの話のタイトルを見ただけで、落ち込む人もいるかもしれません。
言い訳がましく聞こえるかもしれませんが、イエス・キリストが語ってくださった山上の説教を解き明かすことを通して、決して誰かを非難したり、特定の問題だけを大きな問題のように取り扱うつもりはありません。
ただ、イエス・キリストが指摘してくださっている私たちの現実の姿を直視して、それを癒すことがお出来になるイエス・キリストへと自分も含めてすべての人が絶えず導かれることを望んでいます。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 5章31節〜32節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
イエス・キリストが離縁について語っておられる個所は、実はこの福音書にもう一個所あります。それはマタイによる福音書19章3節以下に記された教えです。きょうはその個所も合わせて取り上げたいと思います。
イエス・キリストが離縁について取り上げておられる、という事実そのものに、先ずは心をとめる必要があるように思います。離縁ということが、当時の社会で非常に珍しいケースであったとするならば、この問題をあえて取り上げることはなかったでしょう。
実際、そのようなケースがどれくらいあったのかという統計的な数字はわかりませんが、少なくとも離縁についての手続きを定めた律法が存在していること自体、離縁が起こりうることを前提にしているということです。
申命記24章1節には、このように定められています。
「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」
この個所を根拠に、当時のユダヤ人たちは、離縁する場合には離縁状を渡すことが離縁成立の要件としてきました。逆に言えば、離縁状さえ渡せば、いつでも離縁できるということにもなります。
しかし、さすがにそんな身勝手をモーセの律法が許しているわけもありません。先ほどの申命記の定めには「何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは」という制限が設けられています。
それで、ここに言われている「何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは」とは、具体的に何を指すのか、ユダヤ教の教師であるラビたちの間で論争になりました。
このことに関して、当時、ユダヤ教の中に二つの学派がありました。一つはシャンマイ派と呼ばれる厳格な立場の教えを重んじる学派でした。もう一方はヒレル派と呼ばれる穏健な立場の学派でした。シャンマイ派は離縁について「何か恥ずべきこと」とは不貞行為の場合にのみ限定していたのに対し、ヒレル派は「何か恥ずべきこと」の中に、例えば料理が下手ということまでも含めて考えていました。
そういう意味では、イエス・キリストの教えはシャンマイ派の教えに近いかもしれません。しかし、先ほどの申命記の言葉と、イエス・キリストの言葉とを注意深く比較するならば、イエス・キリストの教えが申命記の求めること以上に厳しい態度であったことがわかります。
申命記の先ほどの言葉の続きを読むと、離縁された女性が別の男性と再婚することが当然のケースとして挙げられています。また、そのこと自体を特別に律法違反とは記していません。しかし、イエス・キリストは離縁した相手が生きている間に再婚することさえも姦通の罪だと指摘しておられます。これは随分厳しい言葉のように感じられるかもしれません。
ここでイエス・キリストが教えようとしている事柄の意図を正しく理解するためには、離縁について扱っている別の個所に目をとめる必要があります。
マタイによる福音書19章にはイエス・キリストが教える離縁についてのもう一つの教えが記されています。そのきっかけを作ったのはファリサイ派の人々の質問でした。
「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」(マタイ19:3)
この質問にイエス・キリストは創世記に記されたアダムとエバの話を引き合いに出して、結婚の神聖さをお語りになり「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と結論付けておられます。
けれども、この答えに納得がいかないファリサイ派の人々は申命記の先ほどの規定を引用して、イエス・キリストの教えの誤りを指摘しようとします。しかし、これに対して、申命記の規定は人間の罪を前提とした掟であって、それは本来の神の御心ではないと、イエス・キリストは反論なさいます。
確かに人間の罪深さを前提にするならば、離縁の問題は避けて通ることができないでしょう。しかし、イエス・キリストは結婚の神聖さに心をとめ、神の本来の御心がどこにあるのかを問うておられるのです。
現実の問題として離縁の問題を考え始めると、様々な議論が噴出してしまい、結婚の大切さがどこかに置き去りにされてしまいます。イエス・キリストはそこに人間の大きな問題を感じておられるのです。実際、結婚について学ぶという機会は本当に少ないと思います。そのような中にあってもう一度聖書の教えに耳を傾けることの大切さをイエス・キリストは指摘しておられます。
しかし、それでもなお人間の罪のために、様々なことがうまくいかない現実に直面しているのが私たちです。そうであればこそ、キリストの癒しを私たちは必要としているのです。