聖書を開こう 2024年4月18日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  徹底した罪の自覚(マタイ5:27-30)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書には神の義と人間の罪について、避けて通ることのできない問題として取り上げられています。おそらく、多くの人にとって、そのような話には関心がないか、あるいは、話を聴いても拒絶反応を示してしまうかもしれません。これが「社会正義と犯罪」というテーマであるならば、少しは関心を持ってもらえるかもしれません。

 きょう取り上げようとしている個所もそうですが、イエス・キリストは山上の説教の中で、神の義と人間の罪の問題を徹底的に取り上げています。それはある意味でその当時のユダヤ教に対する批判でもありました。しかしそれは、今を生きるわたしたちにとっても耳を傾けなければならない大切な問題を示しています。なぜなら、イエス・キリストが教えてくださる事柄を通して、私たちは、自分自身が何者であるのかに気が付かされ、救いの必要性に心を向けることができるからです。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 5章27節〜30節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」

 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」

 きょうの個所には「姦淫」についての問題が取り上げられています。私たちの日常生活の中では「姦淫」という言葉を耳にすることはあまりないかもしれません。しかし、当時のユダヤ人たちにとっては、「姦淫」という言葉は幼い時から教えられた、耳慣れた言葉でした。というのは、モーセの十戒の中に、「殺すな」「盗むな」などの言葉と並んで、この言葉が出てくるからです。現代流にいえば、「不倫」という言葉で置き換えた方が今の人にはピンとくるかもしれません。

 おそらく、今の社会では、小さい頃から、人を殺してはいけないことや、人のものを盗んではいけないことを教えられる機会はあっても、姦淫してはならないということを教えられる機会はほとんどないと思います。そのような話をいつ取り上げるべきかということは、もっと恋愛や結婚について考えるような時期になってからでないと、意味がないという意見にももっともな理由があるように思います。

 しかし、中身についてどれほど詳しく教えられるのかは別として、十戒の言葉として、幼いころから教えを受けてきたユダヤ人が、それをどれほど厳密に守ってきたのか、ということはまた別の問題のようにも思います。もちろん、何の教育も受けていない他の民族と比べれば、ずっと高いモラル意識を持っていたことは疑いようもありません。しかし、こと罪の問題となると、これは教育だけではどうすることもできない深刻な問題をはらんでいます。

 考えてもみれば、十戒の中に「殺人」や「盗み」や「姦淫」についての規定を置かなければならないということ自体、それほどにこれらの事柄が人間に共通した大きな問題であることを物語っています。

 そのような罪の問題を取り上げるとき、イエス・キリストの教えには一つの特徴がありました。それは、行為となって表れる罪の問題だけではなく、そのような行為を生み出す心を問題とされているということです。

 前回取り上げた「殺すな」という教えを取り扱うときもそうでしたが、「姦淫するな」という教えを取り上げるときにも、その背後にある人間の「みだらな思い」に心を向けさせています。

 人間は外面を取り繕うことはいくらでもできるでしょう。テレビのニュースでも、容疑者の日々を知っている人がインタビューに答えて、「そんな犯罪を犯すような人には見えなかった」という言葉をよく耳にします。心の内にある思いは、他の人には分からないものなのです。

 しかし、人の心をご存じである神の前にはそうではありません。イエス・キリストが問題にされているのは、このすべてをご存じの神のみ前でどう誠実に生きるかという問題です。

 イエス・キリストはこのことに関して、極端ともいえる発言をなさっています。

 「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」

 もちろん、これを文字通りに実行することをイエス・キリストは望んでおられるわけではありません。なぜなら、イエス・キリストが問題としておられるのは、体の一部ではなく「心」が問題だからです。しかし、敢えて「体の一部を切り取ってでも」とおっしゃるのは、自分の罪の現実を深刻に受け止め、何も対策を施さないならば滅びがすぐそこに迫っていることを警告するためです。それほどに自分自身の罪に対しては、あまりにも鈍感になりがちなのが私たちです。

 とりわけ、外に表れた行動だけを問題にしていると、自分の心の内にある罪を棚に上げて、他人を批判することに正義感を感じてしまうのが私たちの弱さです。そして、その分だけ自分の内面にある罪の問題から目が遠ざかってしまいます。

 イエス・キリストはそういう人間の弱さをご存じであればこそ、自分の内にあるどんな小さな罪にも心を向けるようにと勧めておられるのです。

 ヨハネによる福音書8章に姦通の現場で捕らえられた女の話が出てきます。その女を捕まえて、イエス・キリストのもとへと連れてきたユダヤ人たちは、モーセの教えに従って、この女を石打ちの刑に処するべきかと問いました。

 イエス・キリストのお答えは意外なものでした。

 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」

 この答えに、一人二人とその場から離れて、誰もその女に石を投げることはありませんでした。

 神の前には罪深い心を取り繕うことはできません。大切なことは、私たちの内にある罪深い思いを自覚することです。そう気が付くときに、救い主であるキリストにに、真摯に救いを求めることができるのです。そのことを神は何よりも願っておられます。

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