ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
法律と道徳は共通する部分もありますが、決定的に違う部分もあります。たとえば、わざと人を殺すことは法律的にも道徳的にも認められることではありませんが、殺したいと思うほど人を憎むこと自体は、法律では処罰することができません。しかし、道徳では、そのような思いを抱くこと自体、非難されるべきことだと考えられています。
もちろん、人の心の中までも罰することができる法律を作れば話は別ですが、人の心の中を知ることはほとんど不可能ですから、そのような法律を作ったとしても意味がないか、あるいは悪用される可能性が高い法律になってしまいます。
また、道徳的に非難される事柄は、時代や地域によって道徳的価値観が変化することがあります。たとえば、さきほどの殺人の例ですが、敵討ちは許されるか、という場合、江戸時代の価値観では厳格なルールの下で道徳的にも許される行為でした。今では法律的にも道徳的にも赦される行為ではありません。
では、道徳と聖書の教えは同じでしょうか、これも共通する部分もありますが、決定的に違う部分もあります。例えば先ほどの例でいうと、人を殺すことは道徳的にも、聖書の教えにも反するという点で共通しています。しかし、なぜ人を殺してはいけないのか、というその価値観の根拠が異なっています。道徳や倫理で、それをどう説明するのかは、その人の価値観によって異なっているために、一つの説明ではありません。では、聖書ではそれをどう説明するのかというと、人が神の像に造られているからだ、という人間の尊厳に関わる問題としてそのことが取り上げられます(創世記9:6)。「神の像」という概念自体が宗教的な価値を含んでいますので、道徳や倫理とは異なっています。もちろん、道徳が宗教から大きな影響を受けることはよくあることなので、厳密な区別はできないかもしれません。
きょうこれから取り上げようとしているイエス・キリストの教えは、倫理や道徳にかかわる話のようにも聞こえるかもしれません。しかし、その背後には神の義や神の御心と深いかかわりがありますので、ただの道徳的な話と受け取ることはできません。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 5章21節〜26節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
前回取り上げた個所で、イエス・キリストは「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と厳しいことをおっしゃっていました(マタイ5:20)。では、神が求める義とは何でしょうか。そのことを今日取り上げた個所とそれに続く個所で、イエス・キリストは人々に教えておらえます。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の1クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」