メッセージ: 律法と預言者を完成するために(マタイ5:17-20)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
イエス・キリストが何のためにこの世に来られたのか、そのことをご自身の言葉で語っている個所が、福音書の中に何か所か登場します。その中でもご自身の使命を端的に語っている個所として有名なのは、マルコによる福音書の10章45節です。そこにはこう書かれています。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
この個所もそうですが、イエス・キリストはご自分の使命をお語りになるときに「〜するためではなく、〜するために」という言い方をしばしばなさいます。たとえばマタイによる福音書9章13節ではこう語っています。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
あるいはヨハネによる福音書には次のような言葉もあります。
「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。」(ヨハネ6:38)
「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来た」(ヨハネ12:47)
こうしてみてくると、メシアについての誤解が当時の人々の間にたくさんあったことがうかがわれます。きょう取り上げようとしている個所にも、この「〜するためではなく、〜するために」という表現が使われています。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 5章17節〜20節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
きょうの個所には、イエス・キリストが何のために来られたのか、そのことが述べられています。冒頭で語られる言葉、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない」というこの言葉は、どういう文脈の中で出てきた言葉なのか、注意が必要です。
当時の人々が待ち望んだメシアのイメージの中に、「律法や預言者を廃止するメシア」に対する期待があったということでしょうか。恐らくそうではないでしょう。この言葉の背景には、イエス・キリストの教えや行動に対する人々の誤解があったと思われます。
福音書の中に記されるイエス・キリストの教えや行動の中には、当時のユダヤ人たちが伝統的に重んじてきた事柄から考えると、そこから外れているように思われるものがいくつもありました。たとえば、安息日について、その日に病気を癒したり、麦の穂を摘んで食べる弟子たちを咎めなかったり、当時のユダヤ人たちの習慣からは考えられないことでした。そもそも罪人と思われる人たちと積極的に関わる姿勢は、おおよそ清さや義に対する伝統的な考えから外れているとしか見えませんでした。
そうした事情が積み重なって、イエス・キリストが来たのは、律法や預言者を廃止するようなラディカルな教えを広めるためだ、という噂が流れ始めたのでしょう。イエス・キリストに対するそういう評価を下したのは、言うまでもなく、イエス・キリストに敵対する勢力の人々です。具体的にはきょうお読みした個所にも名前が挙がっている「律法学者やファリサイ派の人々」です。
「律法や預言者」というこの表現は、いってみれば聖書全体を指す表現です。たとえば、ルカによる福音書24章27節でイエス・キリストが弟子たちに聖書全体からご自分について書かれていることをお教えになるときに、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり」という表現をルカ福音書は使っています。この場合のモーセというのは言うまでもなくモーセを通して与えられた律法の書のことです。ですから「律法や預言者を廃止する」という表現は、聖書全体を否定しているというのと同じくらいの激しい非難をこめた表現です。
確かに表面的にしかイエス・キリストの教えを理解しない人々にとっては、聖書全体を否定する教えのように聞こえたことでしょう。
けれども、イエス・キリストご自身が弁明しておられるように、イエス・キリストが来られた目的は、聖書を廃止するどころか、それを成就するためだということでした。
イエス・キリストはヨハネによる福音書5章39節で「聖書はわたしについて証しをするものだ」とおっしゃっています。イエス・キリストを抜きにして、そもそも聖書を正しく理解することはできません。イエス・キリストこそ聖書が指し示しているお方であり、このお方によって神の言葉が約束する永遠の命がもたらされ、救いが完成されるのです。
けれどもイエス・キリストに敵対する人々はそのようには考えていませんでした。神の義は自分たちによって実現され、神の国は自分たちの力によって引き寄せることができるものと考えられていました。そのために大切なことは、いかに律法を解釈し、具体的な生活の場面にそれをあてはめていくか、ということに終始していました。律法そのものを重んじることは決して非難されるようなことではありません。しかし、律法の本来の目的を忘れて、表面的な律法との合致だけを追及するということになれば、それは形式主義に陥ってしまいます。形の上では律法を遵守しているようでも、内面的には神への愛も隣人への愛もどこかに消えてしまいます。
イエス・キリストが実現しようとしておられるのは、聖書のことばとの表面的な一致ではありませんでした。神の御心が何を人に求めいるのか、そのことを解き明かし、そのことを実践されたのです。
具体的な事柄については、今日お読みした個所に続いて、様々な教えがなされていますので、それらの個所を取り上げるときに詳しく見ていきたいと思います。
そのようにして求められる義について、イエス・キリストは「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」とおっしゃいます。
形式的に律法を守ることでさえ、難しいとすれば、神の御心に沿ってそれを守ることなど、ほとんど不可能に近いことです。しかし、そうであるからこそ、この私に代わって律法の要求をすべて満たし、この私に代わって神の御心を完成してくださる救い主が必要なのです。イエス・キリストが私に代わって勝ち取ってくださった義こそ、律法学者やファリサイ派の人々の義にまさった義です。そのためにこそイエス・キリストはわたしたちのところへ来て下さったのです。
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