聖書を開こう 2024年3月21日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  幸いな人(マタイ5:1-12)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 幸いな人生を送りたい、と誰もが願います。それは当然といえば当然です。では、あなたの人生は幸いな人生ですか、と問われたときに、「はい」と答えることができる人がどれくらいいるでしょうか。

 わたしの職業柄、わたしの耳に届く相談事は、ほとんどが自分がどれほど幸せではないか、という内容です。

 ところで、今まで「幸せ」という言葉を漠然と使ってきました。おそらく、その言葉を耳にした瞬間、その人の中で「幸せ」のイメージ、「不幸」のイメージというものが明確にあるのと思います。

 おそらく、幸せのイメージの大半は、お金と健康と家族などの人間関係に大きく依存しているように思います。それらが全部満足いくようなものであれば、幸せだと人は思い、それらに対する満足度が低くなるにしたがって幸福感が落ちていくのではないかと思います。もちろん、どの程度で、満足なのかは人それぞれです。

 言い換えれば、幸せを計る尺度がそれくらいしかないということです。そして、それらを満足させる成功のモデルがあまりにも限られているということです。例えば、良い教育を受けて、一流の大学に入って、一流の企業で働き、良い人と巡り会って、良い家庭を築き上げること、そういう成功のモデルが一般化してしまっています。さすがに、これは時代遅れの幸せのモデルであるかもしれません。しかし、今なお多くの人がこの成功モデルを幸せへの近道だと信じて、そのレールの上を歩かされています。

 そして、そもそもこの幸せの成功モデルを歩むためには、同じような成功モデルを歩んだ両親のもとに生まれた子供でなければ、ほとんど無理だという絶望感さえ漂っている現代社会です。親ガチャという言葉があるくらいです。

 もちろん、これとは異なる成功モデルがないわけではありません。そして、実際、十分な教育を受けることもなく育ちながら、十分なお金と健康と幸せな家庭を手にする人もいます。しかし、そういう例を挙げて何かを言ったとしても、それは特殊な例で、自分には無理だと決めつけられてしまいます。しかも、結局は幸せへのルートが異なるだけで、幸せの尺度が変わるわけではありません。

 では、イエス・キリストが教える幸せはどういうものなのでしょうか。きょうの聖書の個所はそのことを教えています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 5章1節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、
  天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は、幸いである、
  その人たちは慰められる。
 柔和な人々は、幸いである、
  その人たちは地を受け継ぐ。
 義に飢え渇く人々は、幸いである、
  その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は、幸いである、
  その人たちは憐れみを受ける。
 心の清い人々は、幸いである、
  その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである、
  その人たちは神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は、幸いである、
  天の国はその人たちのものである。
 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 きょうの聖書個所から始まるイエス・キリストの一連の教えは、「山上の説教」と呼ばれています。自分のところへ集まってくる群衆たちを前に、山に登って教えを話されたことから、「山上の説教」と呼ばれています。

 前回取り上げた個所にはガリラヤでの福音宣教の概略が教えと癒しという言葉で要約され、そのために至る所から大勢の群衆がイエス・キリストのもとへと押し寄せてきた次第が描かれていました。きょうの個所に記されているのは、その教えの具体的な内容です。そして、聴衆はイエス・キリストのもとへと押し寄せてきた群衆です。

 イエス・キリストが第一声、口にされた教えは、「幸せ」に関する教えでした。ここでいう「幸せ」というのは、「祝福された」という含みのある言葉です。祝福を与えてくださるのは、言うまでもなく天地万物の創造者であり、わたしたちを支えてくださる天の父なる神です。この幸福の尺度からして、番組の冒頭で語ってきた「幸せ」とは異なります。

 「幸せ」の出発点は、わたしがそれをどう感じるかではありません。そのことがそもそも神の祝福であるかどうかが問題です。もちろん、わたしたち人間は神の御心を必ずしも知ってはいません。知っていないからこそ、教えられる必要があります。そして、イエス・キリストは神の御心にかなった祝福に満ちた人生が何であるのか、そのことを教えてくださっています。

 ここには「〜な人々は幸いである。なぜなら、〜だからである」という言葉が、8回続きます。それで、イエス・キリストのこの言葉を「八福の教え」と呼ぶ人もいます。あるいは、11節を含めて「九福の教え」と呼ばれることもあります。

 ここには、どういう人々が神からの祝福を受け、どういう形でそれが幸せと結びつくのか、その理由が述べられています。そして、その言葉を読むときに、今まで番組の冒頭で述べてきたわたしたちの幸福観とは全く異なるものであることにすぐに気が付かれたと思います。

 あるものは、明らかにわたしたちの常識とは異なるものもあります。たとえば、「悲しんでいる人々は幸いである」という言葉は、わたしたちが思いつかない幸いです。確かに聖書自身も「黙示録」の中で、神が人の目から涙を拭い去ってくださり、悲しみも嘆きもない救いの完成の日がやって来ることを語っています(黙示録21:4)。ですから悲しみ自体が人のあるべき姿ではありません。しかし、現実は悲しみに満ちた世界に生き、悲しみに遭遇するのがわたしたちです。しかし、その悲しみが神によって慰められることを信じ、信頼するときに、それは希望へと変えられていきます。いえ、悲しみを悲しみと感じることができること自体、逆説的ですが、神とつながる糸口になるのです。

 そのような観点でイエス・キリストの幸福観を見ていくと、どれも神との接点をもたらすことと幸せとが深く結びついていることがわかります。そして、最初と最後に「天の国はその人たちのものである」という言葉が繰り返されています。神の国に入れられること、神のご支配のもとに生かされること、そこに人間の幸せの理由があるのです。

 きょうはイエス・キリストが教えてくださった一つ一つの言葉をすべて取り上げて説明することはしませんが、この世の幸せのモデルとは異なる、神の御心から見た幸福について、思いをめぐらせる機会となってほしいと思います。神を信じながらも、この世の幸福観に支配されてしまうわたしたちであればこそ、真摯にキリストの言葉を受け止めたいと願います。

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