聖書を開こう 2024年2月29日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  天の国は近づいた(マタイ4:12-17)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「公の生涯」と書いて「公生涯」という言葉があります。公共のことに関係した生涯、公人としての生涯の側面を指す言葉で、「私の生涯」「私生涯」の対語に当たります。

 キリスト教会では。この「公生涯」という言葉は特にイエス・キリストについて用いられています。およそ30歳のときに洗礼をお受けになり、荒れ野でのサタンの誘惑を打ち破って、ガリラヤでの宣教活動を始められたことから始まって、十字架での死と復活、昇天までのおよそ3年間をキリストの公生涯と呼んでいます。

 きょう、その公生涯のうち、ガリラヤでの宣教の始まりについて取り上げます。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 4章12節〜17節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

 マタイによる福音書は、マルコによる福音書と同じように、イエス・キリストのガリラヤでの宣教の開始を洗礼者ヨハネが逮捕されたことと関連付けて描いています。

 洗礼者ヨハネの逮捕のいきさつについては、この福音書の14章に詳しく記されていますが、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの結婚について、洗礼者ヨハネが公然と避難したからでした。というのも、ヘロデ・アンティパスは自分の異母兄弟であるフィリポの妻へロディアと恋仲になり、聖書では許されない結婚を果たしたからでした。

 こうして、洗礼者ヨハネから自分の結婚について公然と避難されたヘロデ・アンティパスはヨハネを捕まえて投獄してしまいました。そのことを耳にして、イエス・キリストがガリラヤに退かれたというのが、きょうの聖書個所の背景です。

 ところで、この様子を描くマタイによる福音書は、「退いた」という言葉を使っています。それに対して同じ場面を描くマルコによる福音書は「行く」という言葉を使っています。「退いた」というのと「行く」というのでは、まるでイメージが違います。「退く」という言葉から受ける印象は、ヨハネの逮捕の噂を聞いて、怖くなって逃げ出したような感じです。しかしそうではありません。

 マタイによる福音書は、エルサレムを中心に地理を考えていたのでしょう。その場合地方都市のガリラヤへ行くことは、「退く」という表現が相応しく感じられます。イエス・キリストの公生涯のクライマックスはエルサレムでの受難と復活ですから、そのことから考えると、ガリラヤへ行くことは一旦退いたように見えるのも無理はありません。

 しかし、そのことは、洗礼者ヨハネの逮捕を知って、恐れをなしたからではないことは明らかです。というのも、ガリラヤは正にヘロデ・アンティパスの領地であったからです。わざわざヨハネを逮捕したヘロデ・アンティパスの領地に乗り込んでいくのですから、それは意図的な挑戦であるとも言えるかもしれません。

 そして、その活動の拠点、生まれ故郷のナザレではなく、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに定められたことが記されています。このカファルナウムはガリラヤ湖の北西の岸にある小さな町でした。その町を活動の拠点として選ばれた理由は定かではありませんが、少なくともマタイによる福音書は、この出来事をイザヤ書8章23節以下に記された預言の言葉の成就と理解しています。

 マタイによる福音書は、既に見てきたようにイエス・キリストに関わる出来事を一貫して既に神によって預言されたことの成就であるという視点にたって描いています。それはこの一連の出来事が人間の発案によるものではなく、神によって定められたものであることを示すためです。それと同時に、ナザレのイエスをメシアとして認めないユダヤ人に対しては、このことが既に預言者の口によって語られたことであることを示すことによって、イエスこそが待望のメシアであることを明らかにしています。

 ガリラヤに対して、当時の人々が描くイメージは決して良いものでないことは、聖書の記述からも知られています。例えばイエス・キリストの弟子となったナタナエルは、イエス・キリストと出会う前は「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言って、ガリラヤ地方には何の期待もしていませんでした(ヨハネ1:46)。また民衆たちの間でも「メシアはガリラヤから出るだろうか。」と考えられていた様子がヨハネによる福音書には記されています(ヨハネ7:41)。

 しかし、神はまさにメシアの活動の開始をこのガリラヤに置かれ、そのことを預言の書を通して知らせてくださっていたのです。マタイによる福音書がイザヤ書の預言をわざわざ引用しているのは、こうしたガリラヤについての消極的なイメージに対する反論でもあるといえます。

 それはさておき、神がガリラヤの、しかも、当時のほとんどの人にとっては価値がないような小さな町で神の国の福音の宣教を始められたことには大きなメッセージがあります。それは、見捨てられたと思われる者に対する神の関心を示すものでした。神の目はいつも小さな者たちに向けられています。誰もが注目する場所ではなく、人々の注目を浴びないところ、しかも、そこに確かにある救いの必要性を神は決して忘れてはおられないということです。

 そのガリラヤでの宣教活動の第一声は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」というものでした。これは洗礼者ヨハネの宣教の言葉を全く踏襲したものです。表面的な言葉は確かに同じですが、その意味するところは違います。

 洗礼者ヨハネが伝えたものは、自分の後からおいでになるメシアに備えて悔い改めを迫るものでした。神の国は近づいたとは言っても、まだ手の届くところにあるものではありませんでした。しかし、イエス・キリストが「天の国は近づいた」とおっしゃる時、そのリアリティには格段の違いがあります。イエス・キリストはまさに洗礼者ヨハネが予告した「来るべきお方」その人です。

 この福音書の12章28節でイエス・キリストは人々にこうおっしゃいました。

 「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」

 神の国はまさにイエス・キリストとともに私たちのところに到来しているのです。そうであるからこそ、洗礼者ヨハネの時にまさって、真摯な悔い改めがいっそう求められています。このイエス・キリストの招きに耳を傾け、悔い改めて神のご支配にこの身を委ねることこそ、救いへの道なのです。

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