メッセージ: 誘惑に勝利されるイエス(マタイ4:1-11)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
きょう取り上げそうとする個所には、洗礼をお受けになったイエス・キリストがサタンから誘惑を受ける記事が記されています。イエス・キリストはどのように誘惑に打ち勝ち、私たちにとってそれはどんなことを意味しているのでしょうか。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 4章1節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、”霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」
次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
きょうの個所には洗礼をお受けになったばかりのイエス・キリストが、「悪魔から誘惑を受けるため、”霊”に導かれて荒れ野に行かれた」という言葉で始まります。イエス・キリストが荒野に行ったのは、偶然の出来事でもなければ、父なる神の御心に逆らう行動でもありませんでした。そこには明確な神のご計画がありました。そうであるからこそ「”霊”に導かれて」とわざわざ記されています。
その目的は「悪魔(サタン)から誘惑を受けるため」でした。「誘惑」とここで翻訳されている言葉は、新約聖書の中では「誘惑」と翻訳されたり「試練」と翻訳されたりする言葉です。ある意味、「試練」と「誘惑」は表裏一体です。サタンの側からみれば、まさに神の御心から人を引き離そうとする誘惑です。しかし、神の側からみれば、その誘惑を乗り越えて神の御心にしっかりと結びつくための「試練」です。
そもそも神の子であるお方が、なぜサタンの誘惑を受けなければならなかったのでしょうか。それは、イエス・キリストが洗礼をお受けになったのと同じ理由からということができるでしょう。イエス・キリストは神の子であると同時に、まことの人でもありました。ただ罪を犯されなかったという点では、アダムの影響のもとにある人間とは異なっています。しかし、そうでありながら、徹底してまことの人間としてこの地上での歩みを歩み抜かれたお方だからです。
40日40夜の断食の後に受けた最初の誘惑は、食べ物に関する誘惑でした。サタンは言います。
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
この場合の「〜なら」という言葉の意味は、単なる仮定ではありません。「学生ならば勉強したらどうだ」というのと同じ使い方です。サタンはイエス・キリストが神の子であることを認め、それを前提にして、その力を発揮すべきだと迫ります。この場合、サタンの狙いは、ただ単に自分の空腹のために石をパンに変えたらどうだということだけにとどまらないでしょう。救い主なのだから、すべての人のためにこのような方法で食べ物を提供したらどうだ、という提案です。いかにももっともらしい提案です。
しかし、イエス・キリストは申命記の言葉を引用してそれを退けます。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とは、エジプトを出たイスラエルの民が荒れ野で経験した試練が前提となっている言葉です。その経験を通して神はご自分の民に、神の約束の言葉が人を真に生かすことを学ばせました。
第二の誘惑は、神の子なら神殿の屋根の上から飛び降りてみよ、というものでした。しかも、サタンは聖書の言葉を巧みに引用して、信じる者には神の保護が確かであると畳みかけます。
この誘惑に対しても、イエス・キリストは聖書の言葉をもって答えます。
「あなたの神である主を試してはならない」
確かに、神を信頼し従う者に対して、神が必ず守ってくださることは、聖書が教えているとおりです。しかし、ほんとうにそうかどうかを敢えて確かめることは、神を信頼しているのではなく、その時点で既に神を疑い、試しているのと同じです。しかも、その時点で、結果がどうあるべきかを神に押し付けています。神の思いと人間の思いは違っています。神は確かに万事が益となるようにと物事を導いてくださいます。しかし、その益とは必ずしも人間が期待するような益とは同じではありません。それにもかかわらず、神を試して、結果までも神に押し付けることは、神を信頼しているとはとても言えるものではありません。
第三の誘惑は、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」というものでした。
成功のためには手段を選ばない、成功さえすれば、サタンとでも手を組むことを厭わない、そんな思いを抱かせる誘惑です。
これに対して、またもやイエス・キリストは聖書の言葉をもって反論します。
「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
サタンが描いて見せる繁栄を「成功」と思う時点で、すでに神の御心から思いがそれてしまっています。そうであればこそ、神の御心がどこにあるのか、真剣に尋ね求めなければなりません。そのために、神を礼拝し、神に仕えること、言い換えれば、人間の思いが中心となるのではなく、神とその義を第一として生きる生き方を大切にすることです。
こうして、イエス・キリストはすべての誘惑を、神の言葉をもって退けました。私たちもまた。神のみ言葉をもってサタンの誘惑に備える大切さを思わされます。
しかし、それ以上に学ぶべき点があります。
人類の始祖アダムとエバは、取って食べてはいけないと神から言われた禁断の木の実を、蛇の誘惑に負けて食べてしまいました。神の御心を無視し、神に逆らう最初の思いと行動でした。『創世記』にはそのように人間の罪と堕落の始まりが描かれています。
しかし、イエス・キリストは第二のアダムとして、いえ、最後のアダムとして、罪の支払う報酬である死の問題を解決するためにこの地上にやってこられ、私たちに代わってサタンの誘惑に勝利してくださったのです。