メッセージ: 洗礼を受けられるイエス(マタイ3:13-17)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
イエス・キリストが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったという記事は、四つの福音書に共通しています。前回も学んだ通り、洗礼者ヨハネが宣べ伝えていたのは、人々を悔い改めへと導くための洗礼でした(マタイ3:11)。そうであるとすると、なぜ救い主であられるお方が、罪の悔い改めへと導かれるために、洗礼を受ける必要があるのでしょうか。
聖書が語っているところによれば、イエス・キリストは生まれたときから罪なきお方です(1ヨハネ3:5、ヘブライ4:15)。そもそも罪のあるお方であるならば、歴代の大祭司と同じように自分自身の罪を償う犠牲を必要としています。
この疑問に対して、マタイによる福音書は洗礼者ヨハネとイエス・キリストとの間で交わされた会話を載せることで答えようとしています。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 マタイによる福音書3章13節〜17節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
きょう取り上げた個所もまた、「そのとき」というあいまいな言葉で始まります。もちろん、前後関係から考えると、ファリサイ派やサドカイ派の人たちがヨハネから洗礼を受けようとしてやってきた、「そのとき」です。
前回もルカによる福音書の記事から洗礼者ヨハネの活動時期について詳細を学びました。今回もまたルカによる福音書から少しだけ補っておきたいと思います。
四つの福音書の中で、イエス・キリストがいつ洗礼をお受けになったのか、そのことを少しだけ詳しく記しているのはルカによる福音書です。ルカ福音書の3章23節に「イエスが宣教を始められたときはおよそ30歳であった」と記されています。その直前の22節にはイエス・キリストの受洗の記事が記されています。22節と23節の間にはそんなに多くの時間は流れていないでしょうから、およそ30歳のころが「そのとき」ということになります。ただし、「およそ30歳のころ」とありますので、正確な年齢ではありません。ただ、当時の平均寿命から考えると、新しいことを始めるのには遅いようにも感じられます。しかし、旧約聖書に登場するモーセやその後継者であるヨシュアが指導者として立てられたのは40代の時でしたから、それを思うと遅いとは言えないかもしれません。
およそ30歳になったイエス・キリストが洗礼者ヨハネのもとへ行って洗礼を受けようとする場面がきょうの聖書個所です。他の福音書と違って、マタイによる福音書は、イエス・キリストのその行動を思いとどまらせようとする洗礼者ヨハネの言葉が記されています。
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
洗礼者ヨハネがこのようなことを口にしたのは、イエス・キリストが罪のないお方であり、悔い改めに導く洗礼を必要としないから、というのがその直接の理由ではありませんでした。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべき」という言葉は、その直前でヨハネがファリサイ派やサドカイ派の人々に語っていた言葉を思い起こさせます。つまり、洗礼者ヨハネは、自分よりも優れたお方が到来し、そのお方が聖霊と火で洗礼を授けることを待望していました。そして、今まさにそのお方と巡り合うことができた、という気持ちから出たのが、この言葉です。
では、マタイによる福音書の記者が、このやり取りをどのように理解していたのか、という問題は、また別の話です。マタイによる福音書が、このやり取りの中にイエス・キリストが生まれながらにして罪なきお方であることを読み取ろうとしていたのか、その点は明確には言えないかもしれません。ただ、マタイによる福音書もイエス・キリストの誕生が聖霊の御業による特別な出生であったことをしるしており、そのことの中に、生まれながらにして罪とはかかわりのない出生であったということを含んで理解しているとすれば、洗礼を巡るヨハネとイエスとのやり取りの中にも、イエス・キリストは罪の悔い改めへと導く洗礼を必要としていなかったという考えがなかったとは言えないでしょう。
いずれにしても、マタイによる福音書が伝える主イエスの答えは、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」というものでした。どういう意味で、イエス・キリストが洗礼者ヨハネから洗礼を受けることが、「正しいこと」と言えるのでしょうか。
それは、ご自身を罪人の側に置かれ、共に悔い改めを示されたという意味で、まことの救い主として神の御心にかなった行いでした。イエス・キリストは徹底して救いの当事者としてふるまわれたということです。決して罪の問題を他人事のように扱われるのではありません。
やがてイエス・キリストは罪人に代わって、罪の罰をご自身の身に引き受けてご自身を犠牲の献げ物として十字架の死を遂げられました。そういう救い主として、洗礼においても罪人の側に立つ救い主でした。
さて、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったイエス・キリストには他の人には起こらなかった二つのことが起こりました。ひとつは、聖霊が鳩のようにご自分の上に降ってこられるのをご覧になったということです。それに呼応するように、天からの声が「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と告げます。これは、イエスがヨハネから洗礼をお受けになったことが、御心にかなった「正しいこと」であることを証しすると同時に、このお方こそが神の子として、特別な使命が与えられたことを告げる出来事です。
かつてイスラエルでは、王や預言者、祭司を任職するときには、頭に油を注いでその職に就かせました。そこから「油注がれた者」「メシア」という言葉が生まれました。そういう意味で、このナザレのイエスこそ、神の聖霊を注がれた特別なメシアとして立っています。
このお方こそが、御心にかなう救い主として、私たちのもとへ遣わされているのです。
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