メッセージ: 喜びにあふれる東方の学者たち(マタイ2:7-12)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
クリスマスの降誕劇と言えば、その登場人物はごく限られた人数です。キリスト教系の幼稚園などでは、誰がどの役を演じるのか、先生方も配役に頭を悩ますことがあると耳にしたことがあります。
その役柄の一つ、東の国からやってきた博士たちは、昔から三人と決まっています。その出来事を記したマタイによる福音書の記事には、具体的な人数は記されていませんが、彼らが献げた贈り物の数から三人の博士たちと推測されたようです。
きょうはこの東方からやってきた博士たちについて、マタイによる福音書から学びたいと思います。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 2章7節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
先週学んだ聖書個所にも占星術の学者たちが東の方からエルサレムにやってきた次第が記されていました。新共同訳聖書ではその人たちを指す単語、ギリシア語の「マゴイ」という言葉を「占星術の学者たち」と翻訳しています。「マゴイ」は「マゴス」の複数形ですから、やって来たのは一人ではないことが分かります。
では、この「マゴス」とはどんな人たちだったのでしょうか。この単語は新約聖書の中ではもう一個所、使徒言行録の13章6節に「魔術師」という訳語で登場しまします。マゴスは英語のマジックの語源ともなっている言葉です。
この新共同訳聖書のマタイによる福音書では、「占星術の学者」という訳語を採用していますが、今日の天文学者というほど学問的ではないにしても、天体の動きを観察してそこから何かの意味を引き出す人たちという意味でこの訳語を採用しています。ペルシアやバビロニアでは「賢者」に対してこの語が用いられていましたので、日本語訳聖書に限らず、伝統的に「博士」「賢者」などの訳語が用いられてきました。
彼らは星を見て、ユダヤに新しい王が誕生したことを知り、はるばるユダヤにまでやって来ました。この占星術の学者たちにとっては、新しく生まれたユダヤの王は興味と関心の対象でした。そればかりか、高価な贈り物を献げて拝謁するに価値のある対象でした。
それは前回学んだヘロデ王やエルサレムの住民たちが抱いた思いとは全く異なるものでした。ヘロデ王は新しい王の誕生に関心を示しましたが、それは自分の立場を危うくする者の登場という意味での関心でした。ですからそのニュースは不安としか思えませんでした。その不安はたちどころに発展して、新しく生まれた王である赤子のイエスを殺してしまおうという思いに発展します。
エルサレムの住民も不安を抱きましたが、その不安は新しい王の誕生がもたらすかもしれないヘロデ王との対立とその結果起こる社会の混乱に対する不安でした。
また、祭司長や律法学者たちの耳にもユダヤの新しい王の誕生のニュースはもたらされましたが、彼らは預言者の言葉によって、それが起こる場所を知っていても、結局はそれ以上の関心を示さない人たちでした。
それらのことを思い出すと、占星術の学者たちの行動は特別な意味があることがわかります。
彼らはまことの神を知らない異邦人でした。それにもかかわらずエルサレムに住む人たちが、だれもこの出来事に対して神が望まれる反応を示さなかったのに対して、異邦人である彼らが正しい反応を示しました。このことは、やがて救い主イエス・キリストを拒んで十字架にかけてしまうユダヤ人たちと、喜んでキリストを受け入れる異邦人たちとの対比を暗示しているかのようです。
しかも、この占星術の学者たちが払った犠牲は並大抵のものではありません。長い道のりを何日もかけてやってきた人たちです。それも、自分たちの信念を貫いてです。長い旅に必要なものを買いそろえるのも、誰かがそれをサポートしてくれたわけではないでしょう。旅の道で盗賊や猛獣に出会うリスクも覚悟しなければなりません。そんな負担と危険を覚悟で旅立った結果、新しい王の誕生は自分たちの勘違いだったということもあり得ます。とにかくこの長旅の損得を考えれば、旅立つ気持ちを削がれてしまうのも無理はない程です。それにもかかわらず、自分たちの信念を貫く姿勢は、ある意味、信仰に近いものがあります。これもまた、後に信仰によって救われる異邦人たちを先取りするような出来事です。
そして、彼らが見た星の導きのままに道を進むと、ついに幼子イエスのおられる場所に星は止まります。学者たちはその星を見て喜びにあふれた、と聖書は記しています。喜びだけが、その長旅の報いであったとしても、この占星術の学者たちには少しの不満も感じ取れません。喜びのためにこそ、彼らは行動をとったといっても言い過ぎではないでしょう。これもある意味で理想的な信仰者の姿をあらわしているように受け取れます。
最後に、この占星術の学者たちは幼子のイエスと出会い、贈り物を献げます。その贈り物とは「黄金、乳香、没薬」の三つでした。最初の二つ、黄金と乳香は、それぞれ王にふさわしいものであることは想像がつきます。きらびやかな黄金は王の尊厳を、また、乳香が放つ香は王の気品を感じさせます。しかし、没薬は一体何のために贈り物として献げられたのか不思議です。なぜなら、没薬は人を葬るために使うものだからです。そこで、贈り物に没薬が含まれていたことから、やがてイエス・キリストが味わうことになる十字架の苦しみと死を暗示するものであると、そのような解釈が生まれるようになりました。
しかし、また、これら三つの献げものが、いずれも占星術とかかわりのある品であったと解釈する人もいます。そうであるとすれば、正に彼らは自分たちの生活を成り立たせる大切な品々をキリストに贈ることで、完全な服従を表したともいえます。
いずれの説が正しいかは別として、王に対する贈り物は、どうでも良いものであるはずはありません。それらを整えるために彼らが払う犠牲にこそ、その贈り物の価値が現れています。そう言う意味で、この贈り物には彼らの真心そのものが表れています。大げさな言い方をすれば、贈り物を通して自分自身を献げたといってもよいでしょう。
神は異邦人の中から彼らを選び、キリストに対する信仰の模範を示しておられるかのようです。こうしてクリスマスの出来事は、やがて世界の喜びへとつながっていきます。その喜びに私たちも招かれているのです。