メッセージ: ヘロデ王の時代(マタイ2:1-6)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
マタイによる福音書に登場するヘロデ王と言えば、一番にその狡猾で残忍な性格が思い出されます。この王が福音書に登場するのは、まさにイエス・キリストの誕生の場面で、クリスマスが祝われるたびに、ヘロデ王の名もまた時代と地域を超えて拡散されていきました。
きょうはそのヘロデ王について、この人物がどのようにイエス・キリストの誕生に関わったのかを見て行きたいと思います。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 2章1節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
イエス・キリストがお生まれになったのは、紀元前4年よりも前のことであったといわれています。というのはヘロデ王が亡くなったのが紀元前4年であることが知られているからです。
いってみれば、マタイによる福音書にヘロデ王のことが書かれていなければ、イエス・キリストの誕生の年代について、もっと曖昧にしか知ることはできませんでした。それでもマタイによる福音書の記事から分かるのは、最も遅く見積もったとしても紀元前4年より後に生まれたことはないというだけであって、紀元前4年よりもどれくらい前に生まれたのかは、はっきりわかりません。
さいわいルカによる福音書には、イエス・キリストに洗礼を授けた洗礼者ヨハネの活動時期が「皇帝ティベリウスの治世の第15年」であったことが記されていることと(ルカ3:1)、イエス・キリストが洗礼を受けられたのが「およそ30歳」の時であったことが記されていますので(ルカ3:23)、そこから計算しても、紀元前4年よりもそんなに昔ではないことがわかります。
その時代、ユダヤの王を名乗っていたヘロデという人物は、ユダヤに王の空白時代が生まれた混乱に乗じて、うまいことローマの元老院に取り入って王の座を獲得した人物でした。もっとも、ヘロデが全く能力がない人物であれば、元老院もこの男を王になど据えはしなかったことでしょう。無能どころか、エルサレムの巨大な神殿の再建に貢献したり、のちに難攻不落の砦として知られるようになった「マサダの砦」もヘロデ王の手が入っています。
しかし、それでもユダヤ人にあまり人気がなかったのは、彼がユダヤ人の王の血すじではなかったことが挙げられます。その上、その残忍な性格は、人々の間で有名でした。自分の地位を守るためには、身内のものさえも命を惜しまず殺してしまうほどの残忍さです。その残忍さは、イエス・キリストの降誕の話にも影響を与えています。
マタイによる福音書を読み進めると、このヘロデ王は、イエス・キリストという新しい王の誕生の知らせを耳にして、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男の子を全員殺すようにと命じます(マタイ2:16)。
そんな王が支配する時代に、イエス・キリストはベツレヘムでお生まれになりました。
さて、マタイによる福音書は、その時、東の国から占星術の学者たちが、新しく生まれた王を拝謁するためにユダヤにやってきた次第を記します。この占星術の学者たちについては、来週詳しく取り上げることにします。
きょうは、そのやってきた学者たちから、新しい王の誕生の知らせを聞かされたヘロデ王や、その周りの人々について見ていきたいと思います。
この知らせに、ヘロデ王を支配した感情は「不安」でした。不安はヘロデ王ばかりか、エルサレムの住民たちも不安であったと記されています。どちらも不安という言葉で表現されますが、その不安の内容は違っていたことでしょう。
ヘロデにとっての不安は、自分の地位が脅かされることへの不安です。先ほども触れましたが、正統的な王の血筋ではないヘロデには、最初から不安の要素がありました。ユダヤ人の人気を買うために、神殿の再建という大事業を行ったにもかかわらず、それでも、不安はぬぐえません。
エルサレムの住民たちの不安は、王の交代がもたらすかもしれない、社会の混乱に対する不安です。ヘロデの残忍な性格を知っている者たちにとっては、それがいつ自分たちの身にも降りかかってくるか分かりません。
ヘロデ王が新しい王の登場を望まないというのはわかりますが、救いの到来を待ち望んでいるはずのユダヤの人々までもが、イエス・キリストの誕生の知らせを素直に喜ぶことができないというのは、何とも悲しいことです。変化を期待しながらも、しかし、変化の兆しが現れると、恐れや不安の方が先立ってしまう人々です。それが人間というものの弱さなのかもしれません。
マタイによる福音書は、またそれとはまったく別のカテゴリーの人々も登場させています。それはヘロデ王から尋ねられて、王の生まれる場所についての情報を提供した人たちです。
民の祭司長や律法学者たちは、預言者たちの言葉に精通しているので、即座に預言書を引用して、その場所を答えます。しかも、引用されたのは「ミカ書」という小さな預言書です。そんな小さな預言書の言葉にさえ心を留めてきたのですから、彼らにとってこそ、新しい王の誕生の知らせは、心踊るような知らせであったはずです。
しかし、この人たちは、ある意味で記された神の言葉を淡々と語るだけで、それ以上の反応が何もない人たちです。神が約束してくださった救いの計画を誰よりも知っているはずの人たちなのに、そこから先がありません。もちろん、ヘロデ王の手前、喜びさえも隠していたのかもしれません。しかし、彼らの無関心は、やがてイエス・キリストを十字架にまで追いやってしまいます。
マタイによる福音書は、イエス・キリストがお生まれになった時代の人々をこのように描きます。それはまた、時代が下っても私たち人間を支配している現実であるようにも思います。自分以外の王の誕生を望まないヘロデの姿は、私たちそのものの姿です。また、変化に不安を感じる姿もまた私たちの姿です。そして、蓄積した知識がただの知識に終わって、何らかの行動に移すことができないのも私たちそのものの姿です。
そういう私たち人間のために、救い主イエス・キリストがわたしたちのところにやってきてくださいました。神がまさに罪ある私たちと共におられることを示してくださるのです。