聖書を開こう 2024年1月4日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  イエス・キリストの系図と女性の名前(マタイ1:1-17)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 今年はマタイによる福音書から少しずつ学んでいきたいと思います。最後の章まで取り上げるのに二年以上かかると思いますが、どうぞ最後までお付き合いください。

 これから取り上げようとしているマタイによる福音書は、12弟子の一人、徴税人のマタイ(マタイ9:9)が書いた福音書であると昔から語り継がれてきています。そして、新約聖書にある四つの福音書の中で最初に置かれているところから、四つの福音書の中で最初に書かれた福音書であると言われてきました。

 ただ、誰がこの福音書を書いたのか、そして、それがいつ書かれたのか、ということは、この福音書の中には何も書かれてはいません。「マタイによる福音書」というこの書物のタイトルも、著者自身がつけたものではありません。

 いつ誰の手によって何の目的のために書かれた福音書なのかは、学問的な研究の書物に委ねることにして、ここでは詳しく取り上げないことにします。ただし、これらのことを全く抜きにしてマタイによる福音書を解き明かすことはできません。わたしの場合、マタイによる福音書は最初に書かれた福音書ではなく、少なくともマルコによる福音書を知っていた誰かがこの書物を書いたという前提でこの書物に向き合うことにします。ただ、著者については便宜上「マタイ」という名前を使うことにします。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 1章14節〜17節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。
 ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。
 バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
 こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。

 マタイによる福音書はイエス・キリストの系図をもってこの書物を始めます。この点はマルコによる福音書の書きだしとは明らかに違います。マルコによる福音書はイエス・キリストの系図や誕生にまつわる話にはいっさい触れず、洗礼者ヨハネの登場とイエス・キリストが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった話から福音書を始めています。それに対して、このマタイによる福音書は、これからこの書物の中心となるお方を、系図を遡って紹介しています。こうした違いにマタイとマルコの関心の違いを見いだすことができます。

 ルカによる福音書はイエス・キリストの系図を載せている点ではマタイによる福音書と共通していますが(ルカ3:23以下)、それを取り上げる位置と記し方が違います。ルカによる福音書は系図を書物の冒頭には置きません。イエス・キリストの宣教の開始に結びつけて、このお方の系図を紹介します。しかも、系図の紹介の仕方はイエスの母マリアの夫であるヨセフから始まって、人類の始祖アダムにまで遡ります。

 それに対して、マタイによる福音書は、イエス・キリストの系図をその誕生にまつわる話に先だって紹介し、しかも、アブラハムから系図をスタートさせています。このあたり、ルカによる福音書が系図を記す意図とはまるで違うことが伺われます。

 マタイによる福音書は、この系図を「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と呼んで、イエス・キリストがアブラハムの正統な子孫であり、イスラエルの王であったダビデの家系に属するものであったことを示そうとしています。

 このような系図の示し方は、おそらくこの福音書の読者がユダヤ人たちであったことを想像させます。何故ならユダヤ人にとって、メシアと呼ばれるお方が、自分たちの信仰の父であるアブラハムの子孫であることは重要な点だからです。少なくともマタイ福音書が想定している読者はそういう関心を持った人たちです。また、その同じ読者の関心は、果たしてメシアと呼ばれるイエスというお方が、ダビデ王の家系に属する出身であったのか、ということにも関心があったことが、ここから伺うことができます。

 こうしたことから、この福音書が書かれたのは、ユダヤ人の関心や疑問に答えるためなのではないかと言われています。

 そして、マタイ福音書がこの系図を記すときに、アブラハムからダビデ、ダビデからバビロン捕囚、バビロン捕囚からイエス・キリストの誕生までの三つ時代に区分して14代ごとにそれぞれの系図を記しています。この三つの時代は大雑把な時代区分であるかもしれませんが、イスラエルの歴史を知るうえでとても重要な時代の区分です。アブラハムからダビデに至る歴史は、正にイスラエルにとって繁栄へと向かう道でした。しかし、ダビデとその子ソロモン王の時代が過ぎると、国はだんだんと主なる神の教えを離れ、滅亡へと向かう道のりです。しかし、それでも神はこの民を完全には見捨てることはなさらず、捕囚からの解放、そして真のメシアであるイエス・キリストの派遣へと神の恵みの系図が記されていきます。

 最後にこの系図にはマリアを除いて四人の女性が記されています。タマル、 ラハブ、ルツ、そしてウリヤの妻の四名です。その中のある者たちは明らかに異邦人であり、またある者は明らかにモーセの律法から見れば罪を犯した人たちです。そのことを通して、生まれてくる救い主が正に民族を超えた人々のための救い主であり、男女を問わず罪人の救い主であることを物語っているようにも読めます。

 言い換えるなら、この系図は正に神の救いの恵みを物語る系図です。神の救いの計画はどんな人間の罪によっても妨げられることはなく、かえって人間の様々な営みさえも神は用いて救い主をお送りくださったのです。

 この恵みの展開が今やイエス・キリストを通して頂点を迎えます。その恵みの展開をマタイ福音書を通して、これから学んでいきたいと思います。

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