【高知放送】
【南海放送】
「キリストへの時間」をお聞きの皆さん、おはようございます。忠海教会牧師、唐見です。
今年、地元広島に、新しいスタジアムが完成しました。サッカーJ1のサンフレッチェ広島の「エディオンピースウィング広島」、略称Eピースです。そして、長崎にも今年、新しいスタジアムができました。こちらはJ2のV・ファーレン長崎の「ピーススタジアム」、略称ピースタです。世界で唯一、核兵器が実戦使用された二つのまちに、共に「平和」と名付けられたスタジアムがオープンしたことになります。
広島市と長崎市は、毎年それぞれの被爆の日、広島は8月6日、長崎は8月9日、平和記念の式典を行っています。今年の式典には、国内の当事者・関係者とともに、過去最大となる100を超える国々が招待されました。平和を願って行われる行事ですが、そこには、複雑な事情が生じていました。
パレスチナと戦争状態のイスラエルを招待しなかった長崎の式典に、アメリカ、イギリスなどG7各国の大使は出席しませんでした。また、ウクライナ侵攻を続けるロシアと同盟国ベラルーシは、2022年から招待されていませんが、個別に会場に現れて、招待されないことを非難しました。平和な社会の実現を願って毎年行われるセレモニーですが、皮肉なことに、かえって平和を実現することの難しさが改めて浮き彫りになりました。
聖書には、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)というイエス・キリストの言葉があります。大勢の群衆と弟子たちを前に、イエスが幸いについて語られた言葉の一つです。およそ2000年前のこと、パクス・ロマーナ(ローマによる平和)として語られることのある時代です。
イエス・キリストの誕生の際にも言及されているアウグストゥスから、最後の五賢帝マルクス・アウレリウスまでの約200年間、ローマ帝国は最大の領土を獲得し、繁栄を謳歌しました。しかし、パクス・ロマーナの時代が本当に平和だったのかについては、現代のわたしたちは額面通りに受け取ることはできません。
実際、イエスが「平和を実現する人々は、幸いである」と語られていたとき、イスラエルは、ローマ帝国による属州支配のもとにあって、強い不満を抱いていました。やがて、イスラエルはローマに反発してユダヤ戦争が勃発しますが、結局、圧倒的な軍事力を誇るローマ軍の前に敗れて、完全に国を失ってしまうことになります。
パクス・ロマーナ、あるいはその後のパクス・〇〇と名の付くものは、強力な軍事力や経済力を背景に、他国を支配することによって得られる疑似的な平和です。そこでは、常に支配権をめぐる争いが繰り広げられます。あるときは栄華を誇った国も、やがて別の国に取って代わられ、またその国も、さらに別の国に滅ぼされる、ということが繰り返されます。そこには、本当の平和は存在しません。
これに対して、聖書は、まったく異なる視点と表現で平和について語っています。たとえば旧約聖書イザヤ書2章に、「彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」(イザヤ2:4)同じくイザヤ書11章には、「狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。」とあります。
ここには、パクス・ロマーナとは全く異なる平和のかたちが提示されています。聖書が語る平和は、ある戦争があって、次の戦争が始まるまでの期間を指すのではありません。それは、「もはや戦うことを学ばない」世界であり、強い者も弱い者も、共に力をあわせて生きる世界です。
この意味での平和がどれほど実現困難か、考えるまでもないでしょう。理想論に過ぎないと笑われてしまうかもしれません。しかし、ウクライナやイスラエルで今なお続く戦争のニュースに触れるとき、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」とのイエスの言葉に、耳を傾けたいと思うのです。