キリストへの時間 2024年9月29日(日)放送

久保浩文(松山教会牧師)

久保浩文(松山教会牧師)

メッセージ: 主イエスの愛に生きる

【高知放送】
     

【南海放送】
     

 おはようございます。愛媛県松山市にある松山教会の久保浩文です。
 9月の最後の日曜日となりました。ラジオをお聞きの方の中には、ご存じの方もあるかもしれませんが、三浦綾子さんという敬虔なクリスチャン作家がおられました。三浦さんは、脊椎カリエスなどの大病と闘いながら、生涯を通じて沢山の著作を残されました。

 その中に、「塩狩峠」という作品があります。それを基にした映画も製作されました。私は、小説を読むよりも、先に映画を見て大きな感動を覚えました。当時私は、高校2年生で、高松市郊外の平井教会で教会生活を送っていました。コトデンで電車通学をしていたある時、改札を出たところで、外国人に一枚のチラシを渡されました。それは、近くのキリスト教会で催される、三浦綾子原作「塩狩峠」の上映会の案内チラシでした。

 私は、そのチラシに何かしら興味を覚えて、上映会に行ってみました。当日、あまり広くない会堂は、満席の状態でした。講壇の後ろに吊るされた幕に映しだされた映像は、迫って来るような臨場感に満ちていました。俳優の中野誠也さん演じる主人公の永野信夫氏が、路傍伝道をしている牧師と出会い、様々な葛藤を経て、入信に至るまでの様子など、どの場面も感動の連続でした。

 クライマックスは、婚約者ふじ子との結納の日、鉄道で札幌に向かう途中の出来事です。塩狩峠の頂上付近で、最後尾の車両の連結部分がはずれて、坂を逆走し始めます。乗客は、突然の出来事に戸惑い、泣き喚く者、なすすべもなく途方に暮れている者もいました。もはやこれまで、というその時、車輪の軋む音と共に、逆走していた車両が止まりました。乗客が胸を撫でおろしたのも束の間、それは、永野信夫氏が自らの身を線路に投じて下敷きになったからであることが分かりました。

 永野氏の到着を待ちわびていた婚約者のふじ子さんは、この事故を知らされて卒倒しました。後日彼女は、事故現場となった塩狩峠を訪れました。彼女は、最愛の人を失ったことの大きな悲しみを胸に抱えながらも、何か笑みを浮かべ、永野氏が、多くの人を救うために自らの命を献げたことに対する誇りと感謝をもっているように感じました。

 私たちも、何時どこで、予想だにしていない事故や出来事に遭遇するかもしれません。塩狩峠のような甚大な事故や事件に遭遇したり、当事者になったりすることもあるかもしれません。現代でも、鉄道の踏切やプラットホームで、人を助けようとして自らが命を落としたという事件を耳にすると、とても心が痛みます。

 塩狩峠の永野信夫氏の根底にあったのは、聖書の教えでした。しかし、皆が彼のような生き方が出来るかと言えば、そうではありません。聖書によれば、主イエス・キリストは、神の御子であるにもかかわらず、私たちと同じ人間の姿で生まれられ、その生涯の間、父なる神の教えに従順に従われ、最後は、私たちの罪のために、十字架の上で御自身の血潮を刑罰の身代金とされました。そこには、私たちに対する神の無限の自己犠牲的な愛が現れています。

 それは、そうして頂くに相応しい器であるとか、それに見合う立派な行いをしたからではありません。むしろ私たちは、神を信ぜず、神の教えに逆らう者であったり、自己中心的で虚栄心に満ち、自己実現、自分の欲望を満足させることを優先する者であったりするのです。そのような私たちではあっても、神は今も、主イエス・キリストを信じる者の罪を赦し、キリストにあって神の子として受け入れて下さいます。

 永野氏の自己犠牲的な行動は、このような神の愛を知った上でのものでした。使徒パウロは、自らのことをこう語っています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20) 

 主イエスを信じることに遅すぎることはありません。どうかラジオをお聞きの皆様が、お近くの教会に足を運ばれ、主イエス・キリストを信じて下さることを願います。



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