【高知放送】
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おはようございます。愛媛県松山市にある松山教会の久保浩文です。
9月の第三日曜日の朝です。今朝のお目覚めはいかがでしょうか。
明日16日は、敬老の日、国民の祝日です。この日はそもそも、どのような意味があるのでしょうか。「国民の祝日に関する法律」では、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う日」と定められています。
では、敬老の日の対象となる年齢は何歳でしょうか。医療制度では、70歳以上を高齢者と言い、道路交通法では、75歳以上を高齢者として、自動車運転免許証の更新時は、高齢者講習を受けなければいけません。教会の礼拝に来られる方の中には、高齢者になられても現役で働いておられる方も多く、お年寄り扱いされたくないという方もおられます。一概に年齢で線引きすることは出来ません。
教会では、お互いを「兄弟姉妹」と呼びますが、それでも、親子の関係は無くなりません。聖書は、「あなたの父母を敬え。」(申命記5:16)、「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。」(エフェソ6:1)と教えます。誰しも、地上の父母の存在なしには、この地上に生を受けることは出来ません。私たちは、天上の父である神によって、この地上の父母の下に生を受け、父母によって育てられ、成長していきます。
幼い子供は、親との間に正しい関係が持てなければ、霊肉共に健やかに成長することは出来ません。幼児期の子供は、親に全幅の信頼を置き、親を愛し、親に従って成長していきます。しかし、子供は成長するに従って、親に従うことが困難になります。信者の家庭、未信者の家庭を問わず、子供は、親が必ずしも自分が考えているような理想的な人間ではないことに気付きます。これは誰しもが経験することでしょう。
また親も、子供に対して、自分の期待や願望を無理矢理に背負わせてしまったり、期待に沿わない子供を不当に低く評価したり、権威主義的な威圧と懲罰を与えてしまうこともあります。子供は、親からの独立、自立を、親に対する軽蔑や敵意に変えてしまうこともあります。親に対する様々な人間的な思いが、両親に従う、敬うということを難しくしています。父母もやがて高齢化して、子供の手助けを必要とする時がきます。親子の関係が改めて問われる時です。
私が幼少期に読んだグリム童話の中に、「木のお皿」という話があります。ある若夫婦が、年老いた父親と同居していました。父親が食事の時に食べこぼして、衣服を汚し、手が震えて、陶器の皿をよく床に落として壊してしまうので、食事の時は、離れた別のテーブルに着かせ、木をくり抜いただけの粗末な木の皿で食事をさせることにしました。
ある時、若夫婦の子供が、木を切ったり削ったりして、一生懸命に何かを作っているのを見ます。「何を作っているの?」と尋ねると、子供は「木のお皿。ぼくが大きくなったら、これでお父さん、お母さんに食べさせるんだよ。」という返事が返ってきました。若夫婦は我に返って、自分たちの過ちに気が付いて、年老いた父親に謝罪し、元のテーブルの席に着かせ、陶器の皿で食事をさせたという内容です。「子供は親の背中を見て育つ」ということでしょうか。
聖書は、人間的な考え方に基づいて、親や目上の人を大切にしなさい、と教えているのではありません。神との関わりにおいて敬いなさい、と教えています。親や目上の人を敬うことは、神を敬うことへと繋がります。また親も、「主がしつけ諭されるように」(エフェソ6:4)、つまり、主イエス・キリストを模範として、子供の躾、教育をしなければいけません。時期が来れば、雛が成長して親鳥の下を離れて巣立っていくように、一時期、神が子供の養育を親に託しているだけなのです。
主イエスは、愛と寛容と忍耐を持って、弟子たちを訓育されました。親子の関係も、支配者と被支配者という上下関係ではなく、「互いに仕え合いなさい」(エフェソ5:21)との教えが根底にあります。明日は敬老の日、互いに仕え合う、そんなやさしい気持ちで過ごせるといいですね。