【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。広島教会で牧師をしております申ともうします。
いよいよ、今月最後の番組になりました。今日は、イエスの涙を紹介いたします。
神の子であるイエス・キリストも、涙を流すことがありました。イエスが愛しておられた三人兄妹がいました。その名は、マリア、マルタ、ラザロです。この三人はとても仲の良い兄妹でしたが、ラザロが病気で死んでしまいました。イエスは何とかこのラザロを助けたかったのですが、間に合いませんでした。ラザロは死んで葬られ、すでに4日も経っていました。
ラザロの姉妹マリアが泣きながら、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(ヨハネ11:32)と言いました。イエスは、マリアとまた他の人々が悲しく泣く姿を見て、また葬られたラザロの墓をご覧になり、「涙を流された」(ヨハネ11:35)と聖書は記しています。多くの周りの人々がそれを見て、「イエスがラザロをどれほど愛していたのか」と感じるほどだったのです。
わたしたちは、いつか死を迎えます。しかし、わたしたちを愛するイエスは、わたしたちが無意味に死んでしまうことを望んでおられません。だから、自ら死から復活し、わたしたちにも復活の望みを与えてくださいました。わたしたちは、愛する人の死を目の前にして、涙を流すことがありますが、その涙を無駄にすることなく、イエスは、その涙を喜びに変えてくださる希望を与えてくださいました。それは、復活を信じる信仰によって与えられる希望です。
ある時、イエスが旅の中でエルサレムに辿り着いた時のことです。イエスはエルサレムをご覧になって涙を流した、と聖書は記しています(ルカ19:41参照)。「エルサレム」という所は、「神の平和」という意味を持っている名前で、ソロモン時代からずっと、神の神殿があったところです。しかし、そのようなエルサレムから、神によって与えられる平和を見出すことができません。だからイエスは、そのエルサレムを見て涙を流したのです。
聖書は、神が人を創造する時、真の神に似せて造られ、その創造者である神と良き交わりを持つ者として、人を造られたことを語っています。しかし、そのような人間が神に背き、神を悲しませ、神から離れる生活をすることを見て、神はどれほど涙を流されたでしょうか。
でも神様は、ただ涙を流して悲しむばかりの方ではありません。神様は、人を憐れみ、その人を救ってくださるために、独り子イエス・キリストをこの世に送り、その独り子を十字架の死に渡すことにより、人類に救いの希望を与えてくださいました。わたしたちは、そのような神の憐れみ、神の涙があるからこそ、希望を持って生きることができるのです。
どうか、今日の放送を聞いておられるすべての人々が、そのような神様の憐れみを受け入れ、イエス・キリストを信じることができるようにお祈りいたします。今も、あなたの知らない所で、涙ながらあなたのために祈っている人がいることを覚えたいと願います。その涙は、必ず無駄になることはありません。神様は、その涙に必ず報いて下さり、喜びの歌に変えてくださることを信じます。