【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。広島教会で牧師をしております申ともうします。
今日から1か月間、リスナーの皆さんと共に考えたいことは、「涙」です。
「涙」と言えば、いろいろな涙があります。喜びの涙も、悲しみの涙もあります。感情とは別に、目の病気や煙などによって涙が出ることもありますが、今回はそのような涙ではなく、感情につながる涙についてのことを話します。皆さんは、涙の多い方ですか。
聖書に、あるやもめが出てきます(ルカ7:11-17参照)。この女性には一人息子がいましたが、その息子が若くして死んでしまいました。夫を先に亡くして、唯一の身内として頼りにしてきたのに、その一人息子が死んでしまったのです。その母親の思いは、どれほど絶望的で悲しいことでしょうか。これ以上、何の生きる力も希望もないと思うに違いありません。
町の人々によって、棺が町の外へと担ぎ出されました。当時のユダヤ人たちのお墓は、町の中にはありませんでした。だから死んだ人は、町の門を通して町の外へと担ぎ出され、葬られることになっていました。母親は、担ぎ出される棺に付き添いながら、泣いて泣いて、泣き崩れそうになっていました。その時、反対側に、町の外から中へと移動するもう一つの群れがありました。それは、イエスとその弟子たちです。町の門の近い所で、二つの列が鉢合わせしました。
イエスは、この行列の中で、悲しく泣いているやもめを目撃しました。そして、その母親を見て憐れに思い、声を掛けました。それは、誰もが想像していなかった言葉でした。「もう泣かなくともよい」(ルカ7:13)。何という言葉でしょうか。これは、この婦人を慰めるような言葉には思えません。聖書には、「もう泣かなくともよい」と優しい言葉で訳されていますが、本来は、「泣くな」という命令形の言葉です。どうしてイエスは、そのような言葉を、この悲しみに満ちている母親に語ったでしょうか。
それは、決して無慈悲な諭しのようなことではありません。憐れに思って語った言葉です。イエスがこの言葉を語られた理由は、死そのものの力によって、すべての生きる力を無くした母親に、生きる力を与えるためです。イエスはこの言葉の後に、棺に手を触れながら、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」(ルカ7:14)と叫びました。すると、死んだはずの若者が起き上がって、言葉を言い始めたのです。
こんな不思議なことが、聖書に記されていました。息子の死によってすべての希望を失い、泣き崩れる母親を憐れに思ったイエスは、ご自分が死を司っておられる神であることを、この若者を生き返らせることによって証明されたのです。
キリスト教を信じる人々は、愛する人が死んでも、天国における希望を持っています。だから、キリスト教の葬儀においては、ただ泣くだけではなく、天国で再び会えることを信じながら、そのような喜びを与えてくださる神、そのように愛する人を与えてくださる神を賛美するのです。
死がすべての終わりではないからこそ、死んだ息子を悲しむやもめに、「泣かないでいなさい」と言ってくださる神に、望みを置くことのできるあなたになればと願っています。