【高知放送】
【南海放送】
「キリストへの時間」をお聞きの皆さん、おはようございます。忠海教会の唐見です。
今年の3月20日・21日の二日間、岡山県総社市で、日本キリスト改革派教会のイベントが行われました。日本キリスト改革派教会のシステムでは、四国の教会は四国中会、忠海教会は西部中会というグループに属しています。四国中会と西部中会の二つを合わせると、関西から中国、四国、九州、沖縄までの西日本全体がカバーされます。
3月に行われたイベントは、四国中会と西部中会の合同で行うものでした。「さあ、共に集おう!」というテーマのもとに、メインスピーカーは神戸改革派神学校校長の吉田隆先生、西日本の各地にある改革派教会の関係者が、200名以上集まりました。
初日の3月20日は、季節外れの雪に見舞われた日でした。瀬戸大橋が通行止めになり、四国から参加された方の多くが、イベントの開始時間に間に合わないという事態が生じてしまいました。また、山陽自動車道も一部区間で規制が実施され、高速道路を利用できずに開始時間に間に合わない方もおられました。そこでイベントは、プログラムを急遽変更して行われることになりました。
そのようなアクシデントでスタートしましたけれども、ひとたび始まってしまえば、本当に素晴らしい時間になりました。改めてシンプルな事実、共に集い、同じ時間を過ごすことの大切さを感じることができました。そこには、オンラインでは味わえない何かがありました。
聖書の中に、次のような一節があります。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(詩編133:1)これは、旧約聖書詩編133編の冒頭の言葉です。この詩編を含めて、120編から134編までの詩編には、「都に上る歌」という表題がついています。都に上るとは、イスラエルの三大祭り、「過越祭(除酵祭)」「七週祭」「仮庵祭」のときに、エルサレム神殿に行き、献げものをささげることを指します。原則として、ユダヤの成人男子は、この都上りが義務付けられています(申命記16:16参照)。「都に上る歌」は、このエルサレムへの巡礼に関連してうたわれていたと考えられています。
ちなみに、先月の19日は聖霊降臨日、ペンテコステの日でした。使徒言行録2章では、「五旬祭の日」と訳されていますが、これはギリシャ語で50日、すなわち七週祭の日です(7×7+1で50)。このとき使徒ペトロは、エルサレム神殿に集う大勢の都上りの人々を前に説教を行い、都に上る歌の言葉を引用しています(使徒2:30、詩編132:11参照)。
さて、詩編133編でうたわれている「兄弟」とは、血のつながった兄弟というわけではありません。都上りのために、エルサレムに集った人たちです。外国から来た人も多く、そのときに初めて会う人もいたに違いありません。それでも兄弟だ、というのです。それは、人は神により、神にかたどって創造された存在であり、神において人は皆兄弟、あるいは家族だからです。
そして、ここに描かれている神の家族、兄弟姉妹が共に集う恵みと喜びは、教会の礼拝で味わうものと本質的に同じものです。いくつかの宗教で「教会」という言葉が使われていますが、キリスト教における教会は、その語源をさかのぼると、集まる、あるいは集会、という意味を持ちます。キリスト教の教会というのは、本来的には、教える会ではなく、集まる会なのです。そして、そこに集うのは、神によって集められた「神の家族」です。ラジオをお聞きのあなたにも、教会の礼拝の恵みと喜びを味わってほしいと、心から願っています。