【高知放送】
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「キリストへの時間」をお聞きの皆さん、おはようございます。忠海教会牧師、唐見です。
「不安の時代」…現代社会において、広く語られるワードです。就職、結婚、子育て、老後、人生のいろいろなステージにおいて、安心できるヴィジョンが描きにくくなっていると言われます。テレビ、週刊誌などのメディアには、大体、占いやスピリチュアルのコーナーがあります。裏を返せば、現代が不安の時代であることを表しているように見えます。
しかし、不安の時代というワードは、最近になって辞書に登録された言葉ではありません。少なくとも20世紀の半ばに、ウィスタン・ヒュー・オーデンは同名の詩を書き、レナード・バーンスタインは、それにインスパイアされてシンフォニーを作曲しました。ここで描かれている不安の時代とは、第二次世界大戦をリアルタイムで生きた人々の時代です。
聖書の中に、イエスが群衆を前に、「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」(マタイ6:25参照)と語られる場面があります。これは、今からおよそ2,000年前のことです。当時の社会でも、多くの人々が不安を抱えて生きていたことがわかります。実際、人類の歴史は、どこを切り取っても、常に「不安の時代」と表現することができるでしょう。
聖書は、「不安」という感情について、特定の時代や場所に依拠するものではなく、人間存在の根源的な部分に関わる事柄だと教えています。聖書の最初の書物「創世記」は、次のように記しています。「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。』」(創世記3:8-10)
これは、人類のモデルとして登場するアダムとエバが感じた不安を描写している場面です。そのとき二人は、エデンの園、あるいは楽園で生活していました。生きるために必要なものはすべて揃っており、不安になるようなことは何ひとつなかったはずでした。けれども、二人は、神が近づく足音におびえ、木の間に隠れてしまいます。なぜでしょうか。その理由は、食べてはならない、食べると必ず死ぬ、と神が言われた、園の中央に生えている善悪の知識の木の実(創世記2:17参照)を二人が食べてしまったことにありました。
これは、人間の堕落、罪の起源として語られているところです。結局、二人は、エデンの園から追放されることになります。そして、その後の人類の歴史は、放浪の歴史ともいえます。楽園を追放された人間にとって、生きるということは苦しみ、痛み、そして死から逃れることのできないものとなりました。ゆえに、人間はある意味、不安であることがあたりまえの状況に置かれているといえます。
同時にここには、不安への根本的な解決のヒントが示されています。不安の時代をどのように生きたらよいのでしょうか。それは、楽園に帰ることです。もし楽園に帰ることができるなら、そこは不安のない世界ですから、すべての不安が解決されるはずです。では、どうしたらアダムとエバが追放された楽園に帰ることができるのでしょうか。
さきほどの「思い悩むな」の場面で、イエスは結論的にこう話されました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」(マタイ6:33)ここで言われている神の国とは、完全な神の義によって治められている世界という点において、楽園と言い換えることができます。そして神の国は、求めさえすれば入ることができるほど近くにある、と聖書は伝えています。イエス・キリストを信じる信仰によって、あなたにも楽園への道が開かれています。