【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
最近では、一人っ子の家庭が多くなっているせいか、一人の子どもにかける期待も時間もお金も、一つの家庭にたくさんの子どもがいた時代とは、比べものにならないように思います。しかし、その反面、子どもをネグレクトしたり、子どもを虐待したりする家庭も多くあることを耳にします。時代がどんなに変わっても、子どもが本当の意味で大切にされる時代は、なかなか実現されないように感じます。
日本の中でさえそうなのですから、広い世界に目を向けると、もっと悲惨な状況を耳にします。子どもが、労働力の一部になっていたり、教育を受ける機会を奪われていたり、場合によっては、実戦部隊の兵士として兵器を持たされていたりと、本当に悲惨な状況です。今日は「こどもの日」ですから、余計にそのことを考えさせられます。
では、我が家では子どもたちを大切にしてきたのか、というと、当事者である私には、なかなか客観的に答えられない面もあります。自分ではそうしてきたつもりでも、子どもたちは、そうは思っていないかもしれません。よそ様の目には子煩悩のように思われていても、深いところをご存じの神様の目には、そうではないかもしれません。
先日、子どもたちの幼いころを撮影したビデオを見ましたが、恥ずかしくなるくらいのカオス状態でした。散らかり放題の部屋で兄弟げんかをする兄と妹、そんなことには我関せずとしている下の妹。父親はと言えば、その様子をビデオに撮影し、母親は喧嘩の仲裁に入るも、変な理屈で喧嘩を収めることで精一杯。もっと丁寧に子どもを扱えなかったのか、と顔から火が出る思いです。
子どもを大切にできない大人の言い訳は、きっと、余裕がないからというのが一番のような気がします。親としてその気持ちを共感できますが、しかし子どもにとって、それほど嫌な言葉はないと思います。場合によっては、その余裕のなさは自分が生まれてきたからだ、と思い悩む子どもさえいるかもしれません。
イエス・キリストはあるとき、子どもを抱き上げて、こうおっしゃいました。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(マルコ9:36)子どもの大切さは、弟子たちも知らないわけではなかったはずです。しかし、弟子たちの中には、子どもをないがしろにしてしまう風潮が、いつしか芽生えていました。
実際、別の機会には、子どもたちをイエス・キリストのもとへと連れてきた親たちを、弟子たちは咎めてしまいました。そのときも、イエス・キリストはおっしゃいました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(マルコ10:14)
大人には、色々な事情があるかもしれません。しかし、子どもにも、神のご支配のもとでその恵みを十分にいただく機会が、当然のこととして与えられているのです。この世のことを言う前に、まずは、教会が子どもたちのための場となっているか、そのことを深く思いめぐらす一日でありたいと願います。