【高知放送】
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おはようございます。南与力町教会の坂尾連太郎です。
本日から、教会暦では「受難週」が始まります。「受難週」とは、イエス・キリストが十字架の死に至るまで味わわれた苦しみを覚える時です。そして、来週の日曜日には「イースター」、すなわち、イエス・キリストの復活を記念する日となります。そこで今朝は、イエス様がご自分の受難と復活を予告された時の御言葉、具体的には、マルコによる福音書8章31節以下の御言葉に耳を傾けたいと思います。
イエス様は、弟子のペトロがイエス様に対して、「あなたはメシアです」(マルコ8:29)と告白をした後、弟子たちに対して、これからご自分が多くの苦しみを受け、殺され、3日目に復活することになっている、と教え始められました(マルコ8:31参照)。イエス様にとって、復活に至る受難の道は、必ず歩まなければならないものでした。なぜならそれが、神様によって定められた道だったからです。そのようにイエス様は、ご自分の受難を予告された後、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて、次のように言われました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マルコ8:34)
これを聞いた群衆や弟子たちは、とても驚いたと思います。「十字架」というのは、今ではキリスト教のシンボルとなっていますが、当時は単なる死刑の道具です。ローマ帝国で死刑判決を受けた人は、自分の十字架を背負って、死刑執行の場所まで歩いて行かなければなりませんでした。イエス様はここで、そういう自分の十字架を背負って、私に従いなさい、と言われたのです。これは普通は誰もしたくないことです。自分が磔にされる十字架など、誰も背負いたくありません。誰もそんな苦しみを負いたくはないのです。なぜそんなことをしなければならないのでしょうか。
イエス様は続いて、こう語られました。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ8:35)とても逆説的なイエス様の言葉です。自分の十字架を背負わず、自分の命を救おうとする者は、結局はそれを失ってしまう。しかし、自分の十字架を負ってイエス様に従うなら、すなわち、イエス様と福音のために自分の命を失う者は、最終的にそれを救うことになる。イエス様はそう言われたのです。
さらにイエス様の言葉は、こう続いていきます。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マルコ8:36-37)たとえ全世界を手に入れたとしても、自分の命を失ってしまったら、その人には何の得にもなりません。そして人は、一度命を失ってしまったなら、どんな大金を積み上げても、それを買い戻すことはできないのです。
イエス様の十字架の死は、私たちの罪を償い、私たちの命を買い戻すためのものでした(マルコ10:45参照)。そのために、イエス様は、多くの苦しみを受け、十字架上でご自分の命をささげてくださったのです。そして3日目に、死者の中から復活されました。このイエス様の後について行く以外に、私たちが自分の命を救う道はありません。そして、十字架の道を歩まれたイエス様に従っていくためには、私たちも自分の十字架を背負う必要があるのです。そこには苦しみが伴います。しかし、その十字架の道こそ、真の救いにつながる道なのです。
私は、イエス様の福音を宣べ伝えるために、牧師になりました。そこには、喜びと同時に苦しみもあります。そして私は今、さらに聖書を深く学ぶため、オランダに留学しようと考えています。今その準備をしていますが、そこにも苦しみはあります。止めてしまえば楽になれる、と思うこともあります。しかしそれも、私がイエス様と福音のために担うべき「自分の十字架」ではないか、と考えています。
イエス様に従っていくために、私たちにはそれぞれ担うべき十字架があるのです。その十字架を放棄するなら、イエス様に従っていくことはできません。十字架を背負うことには苦しみが伴いますが、そうやってイエス様に従っていく道こそ、本当の意味で、自分の命を救う道、私たちが神の国に入り、永遠の命を受け継ぐ道なのです。この「命に至る十字架の道」を共に歩んでまいりましょう。